歯と顎骨の不調和
1980年代に井上直彦らによって考え出された歯と顎の関係の内容は次のようなものである。500万年の間にわたる人類進化の中で、原人から新人の時代に獲得してきた食生活の進化(肉食,火の使用,調理の進歩)はそれまで築いてきた顎と歯に対する緊密な咬合関係にアンバランスを生じる結果を産みだした。こうした環境下で人類の歯と顎骨は相互に働くバランスが崩れ、咀嚼機能の低下が起きるとともに,顎骨はしだいに退化縮小してきた。
例えば、わが国の不正咬合の頻度を見ると、今から4000〜2300年前の縄文時代人では不正咬合は比較的低率で,およそ20%の頻度を示しているが,弥生時代になると急速に増加し50%まで達している。弥生時代から古代・中世・近世までの期間では不正咬合の頻度は40〜60%の範囲で変動し,時代的変化はあまりみられていない。同様な傾向は明治時代に入っても認められる。
昭和時代初期から昭和31年までに生まれた者の不正咬合の頻度も60%前後であり,弥生時代以降の値と大差はないが、昭和39〜41年生まれの集団では70%以上の頻度を示し,最近に近づくほど増加傾向が認められるという.
不正咬合の時代変化(%) | |||||||||
早前期 縄文 |
後晩期 縄文 |
弥生 | 古墳 | 鎌倉 | 室町 | 江戸 | 明治 | 現代 (1964-66年生) |
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不正咬合 | 22.2 | 20.3 | 50.0 | 39.1 | 36.8 | 63.7 | 56.3 | 43.8 | 72.4 |
また、顎骨の縮小変化は人類の遠い祖先において始まり,文化の発展とともに徐々に加速し,現代に至ってきわめて急速に進行している.現代においては顎骨や咬筋などの咀嚼器官の発育は形態的にも機能的にも低下し,歯と顎骨の不調和(tooth-to-denture-base discrepancy)する現象が急速に進行しているという。
したがって不正咬合は顎骨と歯の大きさによるアンバランスすなわちディスクレパンシーに起因することが多い。顎と歯は同じ縮小傾向を示すが,その縮小の割合は顎骨の方が大きく,口腔内は顎骨と歯の大きさのバランスが崩れ,叢生に見られるような不正咬合が増加してきたと考えた。
茂原信生による縄文時代から現代までのイヌの咀嚼器官に生じた変化の調査では,現代イヌは咬筋や側頭筋付着部が未発達であり,骨質は脆弱化し,下顎骨体の厚さの減少,叢生の増加,歯周病の増加などが見られるという。また、徳川家将軍の骨の調査を行った鈴木 尚は咀嚼器官の退化傾向が強く現れ,上下顎骨体の縮小や歯列不正が顕著にあらわれ,顔の形は超狭顔化がみられていると述べている。このような変化を生じた要因は軟らかな食物中心の食事をとっていた環境要因と結婚相手を貴族社会から選んでいた遺伝要因によるという。
1990年代後半になると歯と顎骨の不調和の見方が少しずつ変化してきた。顎は縮小していないこと,歯が大きくなっていることが不正咬合に大きく関与していることが明らかにされてきた。
高木裕三は現代人の頭部X線規格写真による顎・顔面の計測値を30年前のデータと比較している。それによると,子どもの顎・顔面は以前よりも小さいことはなく,むしろ確実に大きくなっている。またセファロ分析でも1910年よりも1950年代生まれの人の方が下顎骨体長,下顎枝長,総下顎長はいずれも増加傾向にある。これらのことから近年みられる叢生の増加は顎骨の狭小化によるのではなく,歯が大きくなっていることに起因していることが分ってきた。