下顎第3大臼歯の配列状態の時代変化
今回は下顎第3大臼歯の配列状態について時代変化を報告します。いわゆる親知らずがどのような状態で生えてくるのかを時代を遡って検証したいと思います。最近はまともな方向に生えてくる人は少なく、そのせいで何らかのトラブルを生じ、歯医者にお世話になる人が多くなっています。20歳ころになると男性も女性も第3大臼歯が生えてきますが正しい状態で生えてこないと、萌出時に炎症による痛みや腫れが出てきます。専門用語で「智歯周囲炎」と呼んでいます。およそ4万年前、中東地域で発見されたネアンデルタール人の下顎骨(図1)には大臼歯は3本とも垂直に生えて歯列に乱れはありません。きれいにどの歯も問題なく生え揃っています。現代の人でこのような歯並びをしている人は稀なくらいです。
調査した資料は、縄文時代、古墳時代、鎌倉時代、室町時代、江戸時代の遺跡から発掘された人骨の下顎第3大臼歯のX線写真(井上ほか、1987)と出生時が明らかな1920年以降の現代人のパノラマ]線写真です。10年間隔で調査を行いました。
方法はX線写真上で下顎第3大臼歯の配列状態を以下の基準で分類しました。咬合平面と下顎第3大臼歯の歯軸がほぼ平行に生えている場合を水平位(Horizon)、歯軸がほぼ45度に傾斜している場合を傾斜位(Inclination)、ほぼ直角に生えている場合を垂直位(Upright)です。なお、傾斜位と水平位はともに第3大臼歯が萌出するのに困難が予想されるため、両者を合わせて萌出難生(Eruption difficulty)としました。調査した顎数は観察可能な顎数で、両側可能ならば顎数は2と計算しました。
結果を見ると、先史時代の縄文時代では垂直位が97%、萌出難生は3%でほとんどが垂直に萌出していました。同じ傾向は古墳時代にもみられました。しかし鎌倉時代から現代の1940年代までは室町時代を除いて萌出困難の割合が徐々に増加し17%から22%まで上昇しています。
萌出難生の割合は1950年代からは43%へと急激に増加し、その傾向は1980年代の77%まで続いています。とくに萌出難生の中では傾斜位の増加が目立ち、1950年代の15%から1980年代の51%まで増加していました。垂直位は1960年代以前では萌出全体の過半数を占めていましたが、1970年代(1950年代生まれの人が20歳代になる年齢)以降は萌出難生が過半数を占めるようになっていました。
下顎第3大臼歯の萌出状態は縄文時代と古墳時代では95%以上が垂直方向に萌出し、現代人によくみられる傾斜位や水平位はほとんど見られていません。このことは、弥生時代に中国大陸から北九州や山口県へ渡来してきた渡来系弥生人による遺伝子の変化や食環境の影響は萌出方向にほとんど影響しなかったと考えられます。
鎌倉時代から1945年(第2次世界大戦終結)までの庶民の食生活は時代と共に少しずつ変化してきましたが、第3大臼歯の萌出難生の萌出状態は基本的に20%以下とあまり変わりありません。食生活でも主食品も米を中心に、野菜、芋類や雑穀がそれを補い、魚介類もごく限られた量しか消費されていません。タンパク源としては大豆・みそだけで動物性のタンパク質は殆ど摂取されませんでした。このような食環境が第3大臼歯の配列状態にあまり影響を及ぼさなかった要因になるかもしれません。
終戦後、1950年代前半までは戦後の復興期で食料不足による貧しい生活を送っていた時期で、多くの庶民は日本古来の質素な生活をしていました。しかし1950年に始まった朝鮮戦争は「朝鮮特需」という「バブル」を招き、国民は貧しさから急に解放され、ようやく少しずつですが安定した生活ができるようになりました。生活が安定し食生活も豊かになってきましたが、我々の全く気が付かない場所でひそかに歯の萌出に異変が起きてきました。下顎第3大臼歯の萌出難生は1940年代の22%から1950年代の43%へと一挙に増加をしています。
朝鮮特需が終わる1955年ころから日本経済は高度経済成長の時代へと入り、この高度成長は1973年のオイルショックまで続き、1980年代後半からはバブル景気と呼ばれる経済繁栄期を迎えています。こうした期間は消費経済が反映した比較的豊かな時代で、国民の食生活も急速に変化し、栄養価の高い動物性の高タンパク質や高脂質・糖質を含む食材料が市場に氾濫し、しかもハンバーグやパスタなどの軟らかい食事を好んで摂る風潮へと変わってきました。
萌出難生の発現率も1960年代は47%、1970年代は58%、1980年代には77%に増加しています。最近ではさらに増えていることが予測されます。昔と違って環境や食生活が変われば体の変化は気づかないうちに良い方向へも悪い方向へも私たちの体内で徐々に進行しているのは致し方ないかもしれません。
参考資料
井上直彦、伊藤学而、亀谷哲也(1987) 咬合の小進化と歯科疾患−ディッスクレパンシーの研究−. 医歯薬出版、251頁.
Yamada H. (2023) Eruption status and congenital absence of mandibular third molars from the past to the present in the Japanese population. Global Journal of Archaeology & Anthropology, 13(3): 1-7.