―歯科人類学のススメ―

TEL:(052) 794-1172

トリボスフェニック型臼歯の形成

 トリボスフェニック型臼歯とは

 “tribosphenic”型臼歯のトリボスフェニックとはトリボス(tribos=摩擦)とスフェン(sphen=くさび)の合成語で,”噛み砕き“あるいは”すりつぶし“と”切断“あるいは”切り裂き“の2つの機能を同時に備えている臼歯をいう。イヌやサルなどの高等哺乳類の根幹をなす原始食虫類(中生代白亜紀:およそ1億年前。今のモグラに類する動物)がもっている歯で,この臼歯からすべての高等哺乳類の歯はその形を多様に分化をしながら進化してきた。和訳では「楔状摩擦型」などの用語があてられている。我われの歯の形もこのトリボスフェニック型臼歯が基になってできている。

 この歯の形態はヒトの歯と基本的によく似ている。上顎のトリボスフェニック型臼歯の特徴はヒトの上顎大臼歯に比べて遠心舌側咬頭の高さが低く,大きさが小さい構造をしている。また頬側にある2咬頭よりさらに頬側に小咬頭を有している点である。下顎でもヒトの下顎大臼歯に類似しているが,近心舌側咬頭の前方に1個の咬頭(パラコニッド)を有している点が大きく異なる。その他に違っている点は,上下顎臼歯とも咬合面は平坦でなく,近心部が高く,遠心部が低いこと,各咬頭を結ぶ隆線や尖頭が尖って鋭く,鋭角的であることである。

人類   比較解剖学的名称

【上顎大臼歯】 【下顎大臼歯】
(パラコニッド=霊長類では消失)
近心頬側咬頭 ―パラコーン プロトコニッド
近心舌側咬頭 ―プロトコーン メタコニッド
遠心頬側咬頭 ―メタコーン ハイポコニッド
遠心舌側咬頭 ―ハイポコーン エントコニッド
遠心咬頭 ハイポコニュリッド

 トリボスフェニック型臼歯の機能

 この歯のもつ2つの機能のうち”噛み砕き“あるいは“すりつぶし”の機能は上顎大臼歯の近心舌側咬頭(プロトコーン)と下顎大臼歯の中心窩(タロニッド・ベイスン)、下顎大臼歯の遠心頬側咬頭(ハイポコニッド)と上顎大臼歯の中心窩(トリゴーン・ベイスン)で行われる。歯科医にとって最も基本となる上下顎の咬合関係は,実は哺乳類の基幹に位置する初期食虫類の歯の構造まで遡ることが出来ることになる。この咬合関係はおよそ1億年前に確立された原始的な形態構造であることに留意してもらいたい。

 歯の種類によっては上顎のハイポコーンと下顎のプロトコニッド,メタコニッド,パラコニッドにより囲まれる窩(トリゴニッド)の間でも“噛み砕き”と“すりつぶし”機能が営まれているが,霊長類ではメタコニッドの近心にある咬頭(パラコニッド)が欠如するため,この機能はみられない。

 もう一つの “切断”あるいは“切り裂き”機能として、上顎大臼歯のパラコーンとプロトコーンを結ぶ隆線と,下顎大臼歯のプロトコニッドとメタコニッドを結ぶ隆線があり、互いにナイフのように鋭くすれ違って、ハサミやカッターのように物を切り裂く作用を形作っている。もう1ヶ所すれ違い機能が見られる場所は,上顎のプロトコーンとメタコーンを結ぶ隆線と,下顎の一つ後方の歯のプロトコニッドとパラコニッドを結ぶ隆線がある。しかし、ヒトを含めた霊長類ではこのパラコニッドは欠如していることから,切断の機能はここでは行なわれていない。ヒトでは各咬頭を結ぶ隆線は上顎大臼歯の対角隆線(斜走隆線)を除いてはっきり現れることはない。

 肉食性ならびに草食性の動物

 肉食類であるライオンなどの上下顎臼歯も始めはトリボスフェニック型の歯から始まり,それぞれの機能を変化しながら,現在ある形に歯は進化してきた。歯の機能をみると,“すりつぶし”機能として働く部位の構造は臼歯にわずかしかみられない。それに対し“切断”機能は逆に非常によく発達し,結果的に臼歯の形は横からみると咬頭や隆線が鋭く三角形をし,ヒマラヤ山脈の様相を呈し、肉を引き裂くのに適した構造(切断歯型)になっている。一般に食肉類の臼歯の歯冠は鋭い隆縁や尖頭を備えており,鋭縁歯と呼ばれている。動物によっては鋭縁歯のうち上顎第4小臼歯と下顎第1大臼歯の形態がとくに巨大となり,ハサミのように肉を鋭く引き裂くように発達した歯(裂肉歯)を有している。ネコやイヌではこうした裂肉歯をもち,“切断”機能を発達しているが,近年にみられるようなドッグフードやキャットフードではこの歯の働きが十分発揮されることは残念ながらあるとはいえない。ただ単に食餌を噛み,砕くという行動をしているだけである。

 草食動物の歯もトリボスフェニック型臼歯から始まっている。歯はその後の食性の変化により形態を変化させ、“すりつぶし”機能をより発達していったと思われる。ウマやヤギでは各咬頭にあたる歯の隆まりはなく、そのかわり各咬頭からのびた隆線がヒダ状に配列し,咬合面は昔の「洗濯板」のような波打った筋状の紋様を描いた構造(稜縁歯型)を示している。その結果、“すりつぶし”機能を十分に発揮してくるようになる。この場合,歯には“切断”機能は見られない。

 ヒトの大臼歯

 ヒトの大臼歯は原始食虫類のトリボスフェニック型臼歯からどのように形が変ってきたのであろうか。ヒトの食事風景をみると肉や魚,さらには野菜も生のまま,あるいは調理・加工して食べている。こうした2次的あるいは高次的に加工され調理された食物を摂ることは野生動物では決して観察されることはない。ヒトの食性は高次雑食性と呼ばれる所以である。そのため,トリボスフェニック型大臼歯が元々もっていた“すりつぶし”と“切断”の両方の機能を一応はもっているが,とくに“切断”機能はあまり作用していない。実際、大臼歯の近心半部と遠心半部の高低差はほとんどなく,トリボスフェニック型大臼歯の“切断”する働きはかなり低くなっている。むしろ,上下顎大臼歯全体が鈍円化し、咬頭と窩も丸みを帯びて,杵と臼あるいはすりこぎとすり鉢の関係になり,食物を粉砕・すりつぶしていく構造が認められる。しかし、この傾向は草食動物ほどではない。ヒトでもこのように,トリボスフェニック臼歯の基本構造を備えていることは驚きである。同様な構造はヒトと最も近縁な類人猿(チンパンジーやゴリラなど)にもみられるが,歯の咬頭頂,隆線,窩はヒトほど丸みを帯びていない。ヒトほど臼磨運動には適していないといえる。