―歯科人類学のススメ―

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入れ歯ものがたり

 入れ歯の歴史

 フランス人のフォーシャールが総入れ歯をつくったのは1737年のことで,これが西洋では歯科学史上,一番古い入れ歯とされている。しかし日本では和歌山市の願成寺に今から470年前に埋葬された中岡テイと思われる遺骨の中に木製の入れ歯が遺品として納められている。この女性は通称「仏姫」と呼ばれ、1537年に没している。入れ歯の材料は柘植の木で、一木造りとされており、前歯にあたる部分には彫刻が施されている。現代の総入れ歯とほぼ同形で、顎の粘膜にぴったりと適合するように作られている。仏の教えを広めて、「仏姫」とあがめられた高徳な尼僧とはいえ、都を遠く離れた紀州の山寺の住職がこのような入れ歯を使っていたということは、すでにこの時代に入れ歯がかなり普及していたことをうかがわせる(笠原浩より)。

仏姫とその木床義歯

 また、今からおよそ350年前に埋葬された徳川三代将軍・家光に仕えた柳生飛騨守宗冬(1675没.61歳)の墓から、遺骨とともに木製の上下顎の総入れ歯が発見されている。入れ歯の材料は柘植の木で,内面を彫刻して丁寧に仕上げられたものである。人工歯は蝋石が用いられ,2本ずつ歯の形の彫刻がほどこされ,木の歯茎に嵌めこまれている。今の時代では歯型印象を採り,石膏で顎堤の形を再現し、石膏模型を咬合器に装着して入れ歯を製作するが、当時では顎の形に合わせて木の内面を削り,それに人工の歯を彫刻するという過程を経て製作していた。当時としても至難の業であっただろう。

「お歯黒」について

 藤田恒太郎は中国の古い文献や古事記などから日本では有史以来「お歯黒」が用いられていたことを報告している。おそらくその起源は先史時代にまで遡るであろう。「お歯黒」は「鉄漿(かね)」などとも呼ばれ,化学的にはタンニン酸第二鉄塩で,黒インクと同じ成分である。大古(大和時代)には男女とも上流階級だけが「お歯黒」を用いていたという。山賀禮一の『お歯黒のはなし』では,「お歯黒」は一貫して女性の化粧であったが,時代とともにその意味合いも変って,平安時代から戦国時代までは娘が成人して、女として一人前になったことを意味していた。江戸時代になってからは既婚女性を意味するものとなったという。既婚婦人の中で広まった「お歯黒」は黒色に染まることから夫以外の人とまみえない(二夫にまみえず・・黒は何色にも染まらない)という意味をもっていた。江戸時代にはいって,「お歯黒」は既婚婦人のシンボルになり,結婚した婦人は眉を剃り落し,「お歯黒」をつけて人妻のしるしとした。一方、男性の「お歯黒」は平安時代末期に関西地方から始まり,「お歯黒」を施すことが上流階級の権威の象徴になるとともに,二君に仕えずという意味の忠節を表していたことが『平家物語』に載っている。このことが、後に女性の「二夫にまみえず」につながったのかもしれない。源頼朝,今川義元,豊臣秀吉も「お歯黒」をつけていたらしい。また、「お歯黒」の成分にはムシ歯抑制作用という実用性もあった。