続・どうして八重歯になるのか
八重歯とは
八重歯とは歯列からはずれて歯が重なりあって生えている状態を言います。とくに上顎犬歯によく見られます。痛くはないので年頃になるまで気にかけていない人が多くいますが、適齢期になると女性ではとくに気になる人が多いようです。見た目にはまるで八重桜の花弁(はなびら)が不揃いに数多く咲いているようで、八重歯という名前の由来もここから来たと言われています。八重歯は庶民,取り分け女性では昔から愛嬌の対象となっていましが,現在ではあまり歓迎されていません。むしろ審美歯科を標榜する歯科矯正の治療の対象になっています。歯科矯正では八重歯のことを「上顎犬歯の低位唇側転位」と呼んでいます。口腔衛生的にみると八重歯は口が閉じづらくなり口の中が乾燥しやすくなること、 唾液の分泌が少なくなると同時に細菌が増えることで口臭の原因になり、他人から嫌な目で見られるという弊害が起きます。
古い呼び名
歴史をみると八重歯のことをかつて押歯(オシバ)と呼んでいた時代がありました。日本最古に編纂された『古事記』には、第17代天皇(5世紀前半)の皇子(みこ)が八重歯であったことから「押歯(オシバ)の皇子」と呼ばれていたと書かれています。当時の人には八重歯のよく目立つ皇子であったようで、日本ではかなり古い時代から八重歯は大衆に注目されていました。
八重歯について「於曽波(おそば)」と読ませ,「歯重生也」(歯重なりて生うるなり)と解説されたり、「?歯(ごうし)」という字を使い「歯正しからざる也」,「歯の重なり生える」,「歯偏る」などと説明されたりしています。
「八重歯」の語源についてはいろいろな説があり、「八重桜」のように重なり合って生えていることを表現したという説、江戸時代には「弥重歯」と書き「ぎっしりと重なっている歯」から転じたという説、他の歯より遅れて生えてくる犬歯が八重歯になることからソメイヨシノより少し遅れて咲く八重桜と重ね合わせたため八重歯と名付けられたという説などがあります。西洋ではこの歯を鬼歯と呼び、怖くて悪いイメージがもたれているようです。海外の人には歯並びの乱れている人は「自己管理のできない人」と捉える価値観が一般的なようで歯科矯正の対象になっている場合が多いようです。
八重歯の歴史
いつごろから八重歯が現れてきたかその起源を尋ねてみると、今からおよそ250万年前の化石人類のアフリカヌス猿人(Australopithecus africanus)まで遡ることができそうです。人類の進化を扱ったアメリカの科学雑誌“Journal of Human Evolution”にイタリアの人類学者Moggi-Cecchiが載せた論文の中に八重歯と思われる写真が載っていました。化石標本(Stw 498)には上顎の側切歯と第一小臼歯の間に犬歯が唇側へ飛び出している写真があり、このころからすでに八重歯の兆候が出始めたのではないかと思われます。
八重歯の要因
八重歯の要因として、顎が小さいこと、犬歯が第一小臼歯より遅く生えていること、歯が大きいこと、乳犬歯が晩期残存すること、犬歯の歯胚の位置異常などがよく言われています。一つずつ検証することにします。
あごが小さくなっていること
この考え方の根拠として先史時代から歴史時代を通じて食物の変化が歯の咬耗の減少や顎骨の縮小を招いたという学説があります。しかし現在では、顎骨は明らかに大きくなっていること、小児ではほとんど同じものを食べているにもかかわらず、永久歯列になると正常咬合・空隙歯列・乱ぐい歯になること、軟らかい食物ではあごが小さくならないこと、歯が大きくなっていることなどが主な原因と考えられています。歯型模型の計測からも上・下顎で歯列弓の長径・幅径はこの60年間で大きくなり、とくに上顎歯列弓の幅径は著しく大きくなってきたという報告もあります。
これを実際に確かめるため先史時代から最近までの下顎骨の時代変化をセファログラムで調査した結果があります。現代人の資料は、第U世代(1934年〜36年生れ)、第V世代(1944年〜46年生れ)、第W世代(1954年〜56年生れ)、第X世代(1964年〜66年生れ)のデータ、それに加えて1980年代生れ、1990年代生れまでの資料です。比較した項目は下顎最大長、下顎体長、下顎枝高の三項目の平均値を合した下顎骨全体の大きさ(Total)です。
下図は下顎骨全体の大きさを示したものです。縄文早期から古墳時代まで上昇し続け、その後は室町時代まで下降していていました。しかし江戸時代では鎌倉時代のレベルまで回復しています。現代人では男性は1930年代から現代まで急激に上昇し、女性では1950年代以降でほとんど変化が見られません。少なくとも現代人ではあごが小さくはなっていることはありません。
犬歯よりも第一小臼歯の方が先に生えること
上顎の犬歯が第一小臼歯よりも遅く生えるという現象はヒトに限ったことではありません。ニホンザルやチンパンジーなどでも同じ萌出の仕方をしています。下表は永久歯の萌出順をニホンザル、類人猿(テナガザル、チンパンジーやゴリラ)とヒトについて示したものです。ニホンザルも類人猿も最初に生える歯はいずれも上・下顎とも第一大臼歯であり、次いで切歯が生え、第二大臼歯がそれに続いて生えてきます。その後に小臼歯が生え、犬歯がそれに続き、最後に第三大臼歯が萌出してきます。犬歯の萌出は最初から七番目でずいぶん遅く生えてきます。
筆者も今までサルや類人猿の歯を数多く観察してきましたが、八重歯のサルや類人猿はまだ一度も見たことがありません。人の犬歯も上顎は第一小臼歯の後で萌出する五番目の歯ですが、不思議なことに人の犬歯に限って八重歯が見られます。このことから犬歯の萌出が第一小臼歯よりも遅いから八重歯になりやすいという理由にはなりません。
歯のサイズが大きくなること
歯のサイズが大きいと側切歯と第一小臼歯の間のスペースが狭くなるため八重歯になり易いと考えられます。そこで時代を第二次世界大戦の前後に線引きして比較したのが下図です。何故ならばこの時期を境に私たちの生活様式や食環境が一変しているからです。比較したのは戦前と戦後に生れた2つのグループです。上・下顎の中切歯から第二大臼歯までの近遠心径の平均値を総和した値(TATS値)で比較してみると、後者の方がいずれの地域でも前者よりも歯は大きい結果でした。日本のどの地域の人も終戦から10年以上たってから生れた人の方が歯は大型化していました。両グループでの違いは食生活の戦前と戦後の変化が最も強く影響していたと考えらます。
切歯縫合の癒合の有無
最後にもう一つの要因を紹介したいと思います。これまでニホンザルやチンパンジーの萌出順は、犬歯が第一小臼歯よりも遅れて萌出する点で人と変わりはないと話しました。
サルなどで八重歯がない重要な点は、顔面骨の成長が進むにつれ,上顎骨の前方にある切歯骨(前顎骨・顎間骨)と上顎骨の間にある縫合部(切歯縫合)が犬歯の萌出とともに成長・発育して、サルの吻部(口やその周辺が前方へ突出している部分)が前方へ拡大していくためと考えられます。萌出に伴って上顎犬歯萌出域に十分なスペースが生じるため,サルの巨大な犬歯はいつもの所定の位置に正しく収まり、吻部が整然と乱れることなく前方へ突き出してきます。しかも彼らの切歯縫合は生涯癒合しません。
人でも切歯縫合は学童期まではみられますが、上顎切歯が萌出し始める7才〜9才ころになると上顎骨と切歯骨は癒合して縫合部の成長もほぼ終了してきます。それ以後は切歯骨と上顎骨は一塊の上顎骨になります。人では切歯縫合から前方への成長は上顎切歯が萌出し始める混合歯列期の初期まで増加し続けますが、切歯の萌出以後ではあまり増加しません。臨床的にも犬歯から前方の距離は乳歯列期よりも混合歯列の初期で拡大が見られますが、それ以降ほとんど成長は期待できません。それゆえ八重歯は人に限って起きる現象と考えられます。
その他にも八重歯の原因として乳犬歯の晩期残存や犬歯の歯胚の位置異常が考えられますが、八重歯の頻度に匹敵するほど晩期残存や歯胚の位置異常の頻度が高いとは思えません。要するに、現時点では歯が大きくなることが八重歯の可能性として一番高いと考えられます。ただ、切歯骨の縮小が側切歯の舌側転位を招いていることが考えられますが、確かなデータは今のところありません。
以上が人で八重歯になりやすいことの説明で、その大半は歯のサイズが大きくなったことが考えられます。