風習抜歯 (Ritual tooth extraction)
縄文時代や弥生時代には一風変わった風習がありました。歯の治療ではなく風習的に歯を抜くことで,儀式的な抜歯といわれています。この風習は縄文時代後半から弥生時代まで行われています。この風習は成人式や婚姻あるいは服喪に関する儀礼行為と考えられています。
以前、オーストラリア・アデレード大学の解剖学教室で、オーストラリア先住民の風習抜歯をVTRで見たことがあります。それを観ると、その儀礼抜歯は何ら麻酔することなく行われていました。先ず始めに箸ぐらいの長さに細工した木の枝の先端を歯の根元にあて,煉瓦くらいの大きさの石の塊りで木の一端を強く叩いて歯を脱臼させ,ぐらついた歯を指先で引き抜いていました。施術が終わった後の本人は意外にも冷静で,何の苦痛も訴えることなく,むしろ笑みさえ浮かべていました。
日本でもおよそ18,000年前の沖縄で発掘された「湊川人」の頭蓋骨には,この習慣による抜歯の痕跡が残っています。縄文人の風習抜歯の例は,岡山県の津雲貝塚や愛知県渥美半島の吉胡貝塚や伊川津貝塚にもみられます。また、弥生時代でも岡山県の日本海沿いにある土井ヶ浜遺跡にも抜歯人骨が見られます。
抜歯した人骨を詳細に観察してみると、縄文時代と弥生時代で抜歯様式が違っています。縄文時代では左右の上顎犬歯を対称に抜歯した例が最も多く,次いで下顎犬歯の抜歯,下顎中切歯は三番目に抜歯されていました。しかし、弥生時代の遺跡からは上顎犬歯を高頻度に抜歯する点では縄文時代と同じでしたが,上顎側切歯も犬歯に迫る頻度で抜かれていました。抜歯した歯も縄文人では上・下顎の歯が同じか,むしろ下顎歯の方が多く抜かれていましたが,上顎側切歯はほとんど抜かれていませんでした。
その後、中国では新石器時代人の遺跡から上顎歯だけを抜歯し,しかも上顎側切歯を左右対称的に抜歯した人骨が出土しました。その人骨の抜歯様式は弥生時代の土井ヶ浜人骨(山口県)の抜歯様式と類似していました。2つの遺跡の年代差をみると、中国の新石器時代人と渡来系の土井ヶ浜弥生人の時代の間に2,000年もの長い時間が隔たっていることから、2つの遺跡の抜歯様式の類似性は謎と考えられていました。その後、弥生時代の前半にあたる中国の春秋時代の遺跡から上顎側切歯を抜歯した痕がある人骨が見つかり、両遺跡間の類似性が決定的になりました。やはり土井ヶ浜弥生人は中国から移動してきた集団の一部であった可能性が高まりました。
お歯黒
日本では黒い歯をした人々のことが『魏志倭人伝』に書かれており,古墳から発掘された埴輪にも歯を黒く塗った埴輪が発見されています。確かに、黒く塗った歯は他人からみると歯が抜けたような印象を与えます。この風習は古墳時代の3世紀頃から始まったと言われ、当時の上流人にお歯黒が広まっていたことが窺えます。仏教がインド、中国、朝鮮(百済)をへて日本に伝わった(6世紀半ば)ように、歯を黒く染める風習も中国大陸、朝鮮半島を経由して伝来したと考えられています。6世紀の古墳時代に入ってから日本では鉄器の製造が大陸から伝わり、それまで果実の実を使って歯を黒く染めていた染色方法よりはるかに染色性が高い鉄を使う染色法が考えられ、日本独特のお歯黒として浸透してきました。8世紀(753)に日本の地を踏んだ鑑真も中国から伝えた製造法取り入れ、これが徐々に一般に広まっていったともいわれています。「お歯黒」の習慣は平安時代頃に現れたようで,風習抜歯の変形であると言われています。今でも一昔前のモノクロ映画を観ると女優さんは「お歯黒」をしたように歯を黒く塗って出演していました。鎌倉時代以降には鉄を用いた染色法により、お歯黒がより庶民の中に広まります。この風習は明治初期になってお歯黒が廃止されるまで綿々と続いています。
「お歯黒」は「鉄漿(かね)」などとも呼ばれ,化学的にはタンニン酸第二鉄塩で,黒インクと同じ成分です。山賀禮一氏の『お歯黒のはなし』では,「お歯黒」は一貫して女性の化粧であったのが,時代とともにその意味合いも変っています。平安時代には貴族や武士の男女が大人になる儀式で「お歯黒」をしていました。平安時代から戦国時代までは娘が成人して女性として一人前になったことを意味するために歯を黒く染めていたようです。江戸時代になると、男性は公家だけしか「お歯黒」をしなくなりましたが、女性は結婚後に「お歯黒」をするようになり、既婚女性を意味する風習に変化しています。既婚婦人の中で広まった「お歯黒」は歯を黒色に染まることから,夫以外の人とまみえない(二夫にまみえず:黒は何色にも染まらない)という意味をもっていました。「お歯黒」は既婚婦人のシンボルになり,結婚した婦人は眉を剃り落し,「お歯黒」をつけて人妻の記しとしました。
一方,男性の「お歯黒」は平安時代末期に始まり,「お歯黒」を施すことが上流階級の権威の象徴になるとともに,二君に仕えずという忠節の意味を表していたことが平家物語に載っています。このことが,後に女性の「二夫にまみえず」につながったのかもしれません。源頼朝,今川義元,豊臣秀吉も「お歯黒」をつけていたようです。また,「お歯黒」の成分にはむし歯抑制作用という実用性も認められています(長谷川正康,1993より)。
庶民の「お歯黒」への関心も江戸時代に入ってから深まり,浮世絵に数多く描かれるようになりました。このように日本の社会に深く浸透した「お歯黒」の風習も明治時代初期頃からその姿を消し始めるようになってきました。しかし,庶民の中では,なかなか「お歯黒」の風習をやめようとする者がなかったようで,昭和初期頃まで続いた地域もありました。