上顎第1小臼歯の彎曲徴
2018年度から愛知県下の某歯科衛生士専門学校で口腔解剖学を教えることになりました。久しぶりで学生の前で講義するため当初は少し戸惑っていましたが、それでも回を重ねるごとに昔の感覚を取り戻し、学生にはできるだけ興味を持ってもらおうと老体に鞭を打って励んでいます。
歯牙解剖の講義はおよそ20年ぶりです。その中で毎年同じ違和感をもっていたのですが、上顎第1小臼歯がどうして他の歯と違った彎曲徴をしているかという問題です。学生にはこの歯は他の歯と違っては歯の彎曲徴は逆に現れます、と教えるのですが、どうしてこの歯だけに逆に現れてくるのか今までの文献を見ても明らかにされていません。そこでこの問題について考えてみました。
たくさんの歯がある中で、どこの部位の歯かを明確にすることを一般に歯を鑑別するといいます。歯の鑑別は歯科医や歯科衛生士はもちろんのこと、医師や人類学、法歯科学に従事している先生や、警察の鑑識に関係する人も歯の形態の特徴には造詣が深く、鑑別の仕方も詳しい人が多くいます。人類学の中で形質人類学では骨や歯を対象に研究しているからです。
歯の鑑別の順序は
@歯種の鑑別 (切歯, 犬歯, 小臼歯 or 大臼歯)
A顎性の鑑別 (上顎 or 下顎)
B歯種内の鑑別 (第一 or 第二)
C側性の鑑別 (右側 or 左側)の順に従って行われます。とくに右側か左側かを見分ける方法がミュールライター(Muhlreiter)の三徴候といわれている特徴です。ミュールライターは歯の形態的特徴に注目し、3つの特徴すなわち隅角徴、彎曲徴、歯根徴を挙げ、左右のどちらの側の歯かを見分ける方法を考案しています。
1) 彎曲徴:歯冠を切縁・咬合面から見た場合、唇(頬)側面と
隣接面との移行部の弯曲度が近心と遠心で異なり、近心
の方が必ず遠心よりもカーブが強い。
2) 隅角徴:歯冠の唇(頬)側面における近心隅角と遠心隅角
との間に現れている差異をいい、近心隅角は鋭く、遠心隅
角はこれより鈍である。
3) 歯根徴:歯全体を唇(頬)側から見た場合、歯の切縁・咬合
縁に対して歯根の長軸がつくる角度は、近心では鈍角
(90 度以上)、遠心では鋭角(90 度以下)をなす。
なお、コーエン(Cohen)はこれら3つの特徴に歯面の特徴(歯面徴)を加えています。
歯面徴:歯冠・歯根の近心面は遠心面よりも大きい。
今回は1)の彎曲徴について考えてみたいと思います。この特徴は4歯種すべての上下顎のほとんどの歯に応用できますが、例外の1つに上顎第1小臼歯があります。この歯だけは一般の彎曲徴がみられないだけでなく、むしろ逆の彎曲徴、すなわち遠心の方が近心よりも彎曲が強く、急なカーブをしているという特徴をもちます。
なぜこの歯だけが他の歯と違って逆の特徴をしているかについては様々な意見があります。ある学者は、上顎の歯列弓は半楕円形のカーブを描き、その彎曲は第1小臼歯の位置にある変曲点を境にその歯の彎曲に違いがあるといいます。しかし第2小臼歯より遠心の歯でも通常の彎曲徴をしていることから、あまり納得いく説明にはなりません。例えば、下記で示すマングースキツネザルの上顎歯列です(瀬戸口烈司、1986)。この動物の歯列弓は前細りの馬蹄形をしており、M2やM3の位置で歯列弓はしだいに幅が後方に行くに従い狭くなっています。M2やM3を咬合面からみると、近心の方が遠心よりも彎曲度は強く、いわゆる通常の彎曲徴を示しています。しかしP3, P4, M1は遠心の方が彎曲は強く逆の彎曲徴を示しています。すなわち馬蹄形の歯列弓では後方へ行くに従い歯列弓の幅が広くなり逆彎曲徴を示し、狭くなれば通常の彎曲徴をつくっていることになります。ヒトでは前述しているように歯列弓は半楕円形を示し、後方へ行くに従い少しずつ幅は広くなっています。前述の見方が正しいとすれば、ヒトではすべての歯が逆の彎曲徴をしていることになります。したがって、歯列弓の変曲点にあたるという考え方はヒトでは妥当ではないと考えられます。
筆者は以前、オナガザル科のニホンザル、類人猿のチンパンジーとヒトについて上顎第1(サルでは第3という)小臼歯を比較したことがあります。ニホンザルやチンパンジーの歯を見ると、上顎第1(第3)小臼歯は一般に言われているような彎曲徴をもち、近心の方が鋭く曲がり、彎曲の度合いが強くなっていました。チンパンジーでもニホンザルほどではありませんが、近心の方が彎曲は強くなっています。この特徴は人類へ進化してきたときに変化したのではないかと考えています。
前述したミュールライターの彎曲徴の判定の第2の方法で考えると、狭鼻猿類や類人猿および初期人類ではこの方法は当てはまらないと考えられます。とくにニホンザルやチンパンジーでは、咬合面からみた上顎第1(第3)小臼歯の近遠心の頬側隅角を結ぶ直線、頬側咬頭頂から引いた垂線、それと歯冠の頬舌軸は一点に収束しないためです。やはり、ミュールライターの1)の方法で彎曲徴の判定をした方がよいことになります。むしろヒトで逆彎曲徴が現れる原因を探ることが重要と考えられます。 ヒトが類人猿(チンパンジー)と違う点は歯に関していえば犬歯が縮小してきたことです。チンパンジーの上下顎犬歯は下顎第3小臼歯と犬歯・小臼歯複合体(C-P3 complex)を形成し、これら3歯は巨大化しています。もちろんこれは獲物を捕まえてその肉を引き裂いて食べるために巨大化した歯ではあるだけでなく、オスが繁殖相手のメスに対し牙を巨大化することによってメスに対し自分をアピールして多くのメスを引きつけ、繁殖に有利にするために大きくなったと考えられます。結果的に大きくなった上下顎犬歯と下顎第3小臼歯が凸と凹の関係になって上手く噛み合っています。上顎第3小臼歯も巨大化した下顎第3小臼歯に連動して近心頬側が発達したに違いありません。そのために下顎第3小臼歯ほどではありませんが、近心頬側が外側に突出し、ニホンザルやチンパンジーでは通常の彎曲徴が形成されたと考えられます。しかしヒト化によって犬歯の縮小化への変化が起きると、下顎第3小臼歯は巨大な上顎犬歯を受け入れる必要がなくなり、大きさも縮小化し、それに連動して上顎第1(第3)小臼歯の外側への張り出しも弱まっていったと考えられます。 いつごろにこの逆彎曲徴の現象が人類に現れてきたのでしょうか。化石人類を眺めてみると(下図)、エチオピアから出土した580万年〜520万年前の人類化石のカダバ猿人はまだ近心頬側歯頸部の凸隆が強く、近心頬側の彎曲が遠心よりも強い彎曲徴を示します。420万〜380万年前のアナメンシス猿人では近心頬側歯頸部の凸隆が弱くなったために近心頬側の彎曲の度合いはかなり小さくなり、320万年前のアファレンシス猿人ではほぼ対称形、50万年前の古代型ホモ・サピエンスのホモ・ハイデルベルゲンシス人はほぼ対称的か、やゝ近心の方が彎曲は強くなっています。さらに現代に近づくことで、近心頬側の張り出しが少なくなり、遠心の彎曲が相対的に近心よりも強く、通常の彎曲徴とは違った、逆の彎曲徴が形成されてきたようです。われわれ現代人にみられるような上顎第1小臼歯の逆彎曲徴は人類進化の過程でかなり最近に獲得した形質と考えられます。