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類人猿(ボノボ)の犬歯

 ボノボという言葉を始めて耳にした人が多いと思います。少しボノボについてお話したいと思います。御存知のように類人猿はテナガザル,オランウータン,ゴリラ,チンパンジーの4種が現在では棲息しています。テナガザルとオランウータンは東南アジアに,ゴリラとチンパンジーはアフリカ大陸に棲息し,体の大きさからはテナガザルだけが小型の類人猿,ゴリラ,オランウータン,チンパンジーは大型の類人猿といわれています。ヒトとチンパンジーのDNAは98.8%同じで,わずかに1.2%しか違いがありません。ゴリラとは1.4%,オランウータンとは2.4%違っています。

 現生のチンパンジー属にはチンパンジーとボノボ(ピグミーチンパンジー)の2種があります。大学に勤務している時にベルギーのテリヴューレンにある中央王立博物館でボノボの歯を調査する機会があり,今回は犬歯に的を絞って紹介したいと思います。

 私たち人間が類人猿と違うことは直立二足歩行と犬歯の縮小といわれています。それでは人間と類人猿の犬歯はどのように違っているのでしょうか。ここでは類人猿の中でもボノボの上顎犬歯を取り上げました。

 その前にヒトの上顎犬歯舌側観について説明します。舌側から見た概形は菱形で近遠心の切縁と近遠心の辺縁隆線,基底結節から構成されます。中央に尖っているのは尖頭で,そこから中心舌側面隆線が基底結節に向かって走っています。尖頭のすぐ下は結節状の膨らみ(藤田による成書にはこの解剖用語は記載されていない)があり,中心舌側面隆線の基部との間は少しくぼんでいます。中心隆線の近心と遠心には副隆線があり,遠心のほうがよく発達しています。辺縁隆線は近心と遠心にあり,この隆線に囲まれた部分を舌側面窩と呼んでいます。近心隆線は直線的,遠心隆線は湾曲して走ります。基底結節は結節状に強く膨隆し,中央に位置します。大学で歯の解剖学を学んだとおりです。


ヒトの上顎犬歯舌側面 (藤田恒太朗より)

 それではボノボではどうでしょうか。私も驚いたことですがまったくヒトの犬歯とは違っていました。ヒトの解剖用語を使えるところもありますが,うまく使えないことのほうが多いことが分かりました。バトラーやキンゼイの論文を読んで,なんとかボノボの犬歯の解剖用語を作ってみました。ヒトと違って,オスとメスでは犬歯形態に性差があり,その説明も区別してあります。当然ですが,ほかの類人猿と同じようにボノボでも犬歯をみただけでオスとメスを区別することが可能です。

 説明が必要な項目があります。Shoulder(ショルダー)という言葉です。この言葉はヒトでは近心隅角や遠心隅角をさす言葉で,接触点と同じと思っていただければよいと思います。切縁隆線と辺縁隆線が合する位置にでき,近心も遠心も外側に向かって突出しています。バトラーが記載した言葉で,“近心と遠心の肩の部分(shoulder )“と彼は表現しています。近心切縁溝はヒト以外の霊長類に特有の用語です。この溝は近心切縁のすぐ遠心にある深い溝で,ニホンザルでは尖頭から歯頚部を通過し,歯根まで延びています。中心溝という用語がありますが,ヒトではこの用語は記載されていません。ヒトにはない特徴です。また歯頚隆線は歯頚部にある隆線で近心と遠心は辺縁隆線に連なっています。ヒトでは記載されていません。ヒトの基底結節もボノボではありません。


ボノボの♂の上顎犬歯舌側面 (山田博之より)

上顎犬歯の舌側面観

 オスの概形は二等辺三角形。近心shoulderは歯頚側1/5のところ,遠心shoulderは歯頚側1/4にあります。近心切縁のすぐ内側には深く線状に窪む近心切縁溝が尖頭から歯冠基底部に向かって流れ,この溝は近心辺縁隆線によって遮断されています。近心舌側隆線は近心切縁溝に沿って走行する丸みを帯びた太い隆線で、周辺との境界が明瞭です。近心舌側隆線の遠心を流れる中心溝は尖頭付近から歯頚部まで線状にやゝ強く窪みながら縦走し,深さを減じながら歯頚隆線を分断して歯根まで延びています。中心溝の遠心には発達した遠心舌側隆線が歯冠高1/2から歯頚隆線まで縦走した後,L字状を描いて遠心の歯頚隆線と合流し,遠心辺縁隆線の終点まで延長しています。歯頚隆線は膨隆して発達がよく,また遠心舌側隆線と遠心切縁の間は広くて深い遠心舌側面窩が形成されています。


Pan paniscus(ボノボ) ♂(左)と♀(右)

 メスは歯冠高が低いため概形は正三角形をしています。オスとの相違点は,1)サイズが小さいこと,2)浮彫像が弱いこと,3)近心と遠心のshoulderは歯頚1/3に位置することなどです。

ヒトとボノボの比較

 左からボノボのオス,ボノボのメス,ヒトの上顎犬歯舌側面です。ヒトでは男性と女性はほとんど同じ形をしています。人に最も近いチンパンジー(チンパンジー属にはチンパンジーとボノボの2種がある)と比較してもかなり大きさや形態に違いがあります。ヒトとチンパンジーの違いが犬歯の大きさの縮小だけに注目されていますが,形にもかなり違っていることが分かります。