―歯科人類学のススメ―

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第1大臼歯の先天性欠如

 歯は体の成長過程で早期に顎骨内に発生することから,身長や体重などよりも外部環境の影響を受けることが極めて少ない。歯の発育や萌出過程はかなり安定し,歯自体の形態変化も少ない。とくに最初に口腔内に萌出する歯の萌出時期も標準萌出年から1年以上ずれて生えることはほとんど無い。永久歯の中では第1大臼歯は6歳ころに口腔内に萌出してくる。この歯の形態は最も安定し,退化傾向が最も少ない。しかもこの歯が欠如することは外胚葉性の形成異常や遺伝的疾患による多数歯欠如以外はほとんどなく,退化に伴う先天性欠如が皆無であるといわれてきた(藤田)。しかし,臨床歯科医からみると稀にではあるが,8歳から10歳ころになってはじめて大臼歯が口腔内に生えてくることがある。このような歯はほとんど例外なく退化的特徴をもっている。このような「退化的形態をもつ近心位の大臼歯」(以後,退化的近心大臼歯と呼ぶ)について考えてみたい。
 退化的近心大臼歯は萌出方向が近心傾斜すると共に,遠心舌側咬頭が退化して3咬頭性を示し,第二大臼歯の退化した形態特徴を示す。X線写真の所見でも3本すべての大臼歯が存在することはなく,1歯以上の大臼歯が先天性欠如したと考えられる。

図1.退化的近心大臼歯(矢印)
図1. 退化的近心大臼歯(矢印)

これまでの考え方

 藤田はボルクの末端退化説をさらに発展させ,人類では切歯部は上顎が遠心側から,下顎は近心側から退化し,臼歯部は上下顎とも遠心側のみから退化していくという仮説を提唱している。永久歯を発生学的にみると,切歯・犬歯・小臼歯は代生歯列(第二生歯列)に属するが,加生歯である大臼歯は乳歯列(第一生歯列)に属している。3本ある大臼歯のうち近心に位置する第1大臼歯は"大臼歯場"の効果を最大限に発揮する歯で,形態も最も安定している。しかしこの歯から離れるにしたがい,歯は "場"の特徴をしだいに弱め,遠心末端にある第3大臼歯は退化が強く作用し,極端な場合は欠如してくることがある。こうしたことから,これら3本の大臼歯について藤田はその論文の中で「・・・大臼歯が1本ある場合には第一大臼歯,2本ある場合には第一,第二大臼歯である」と記載している。この考え方によれば,第1大臼歯が欠如する場合は第2・3大臼歯もすべて欠如すること,また大臼歯の中で萌出時期が遅延し,形態が退化した歯でも,最初に生えた歯であれば第1大臼歯になることになる。したがって,第1大臼歯が先天性欠如を生じることは,外胚葉性の形成異常による多数歯欠如や多数歯欠如を伴う遺伝的疾患以外は皆無であると考えられ,わが国ではその後の研究者の多くがこの考え方を踏襲してきた。

従来の考え方の矛盾点ともう一つの考え方

 退化的近心大臼歯は上顎に多いことから上顎について述べてみたい。

 1.萌出時期
 退化的近心大臼歯は8歳から10歳ころに生えてくる。この大臼歯を第1大臼歯(通常は6歳ころに萌出)と考えると通常よりも2年から4年遅く,第2大臼 歯(通常は12歳ころ萌出)と考えると2年から4年早く萌出することになる。一般に乳歯が早期に脱落すると,後継永久歯の萌出時期は早くなり,また近心位 の歯が欠如するとその遠心位の歯は発生が早くなる傾向にある。したがって,第1大臼歯が退化作用により萌出遅延になったと考えるよりも,第1大臼歯が先天 的に欠如したため,第2大臼歯の萌出が早くなったと考えられる

図2.矢印は退化的近心大臼歯
図2. 矢印は退化的近心大臼歯

 2.退化的近心大臼歯の遠心舌側咬頭の発達程度
 上顎大臼歯は一般に4咬頭をしている。4咬頭のうち遠心舌側咬頭は第3大臼歯に向かうにしたがい退化する傾向が強い。日本人の第1大臼歯の遠心舌側咬頭の発達程度は上顎では3咬頭性("3+"と"3")がほぼ0%,第二大臼歯は40%弱を示す。退化的近心大臼歯をもつ個体の3咬頭性の頻度は53%を示すことから,退化的近心大臼歯は第1大臼歯よりも第2大臼歯の特徴に類似している。

 3.第3大臼歯の有無
 パノラマX線写真で観察しても,大臼歯は1本あるいは2本あるだけで,3本目の大臼歯は確認できなかった。退化的近心大臼歯をもつ大臼歯部は少なくとも1本の大臼歯が先天欠如していることになる。すなわち,退化的近心大臼歯があるとその領域の大臼歯は3本あることはない。

 4.退化的近心大臼歯と正常側の第二大臼歯の形態の類似性
 一般に左右側の歯の形態は基本的に対称形をしている。一方に退化的近心大臼歯があり,もう一方に正常な第1大臼歯がある場合,左右差を較べてみると左右一致性は極めて低くなる。むしろ退化的近心大臼歯は正常側の第2大臼歯とよく似た形態をしている。左右一致性からみても退化的近心大臼歯は第二大臼歯と考えられる(図1)。

 5.歯胚の位置と形成時期ならびに萌出状態
 パノラマX線写真でみると,退化的近心大臼歯の歯根は離開度が小さく,癒合する傾向をし,第 2大臼歯や第3大臼歯とよく似た特徴を歯根に示している。また,萌出状態は歯冠が近心傾斜して,近心位の歯に接触している。第1大臼歯の先天性欠如により 近心にスペースができ,このスペースに第2大臼歯が傾斜し,早期に萌出したと考えられる。


図3

 6.退化的近心大臼歯の遠心にある大臼歯と本来の第三大臼歯との類似性
 図4は第2乳臼歯と退化的近心大臼歯(矢印)を示してある。図4を見るとこの歯の遠心に位置する大臼歯は第3大臼歯特有の形態異常を示していることが分 かる。もし退化的近心大臼歯を第1大臼歯と考えるならば,その遠心の歯は第2大臼歯になるが,第2大臼歯がこのような形態異常を示した現象は経験がない。 おそらく第3大臼歯であると考えられる。


図4 模型とX船写真

 7.退化的近心大臼歯の大きさ
 これまで退化作用が歯に強く作用したため退化的近心大臼歯が形成されたと考えられてきた。しかし歯の大きさを測ってみると,退化的近心大臼歯は縮小より も大型化がみられ,歯の大きさに関して退化作用が働いていないことになる。退化的近心大臼歯の大型化は第1大臼歯の先天欠如による第2大臼歯の代償性変化 と説明できる。代償性変化とは同一歯種内で歯が欠如した場合,それに隣接する歯は欠如した歯のスペースを補償するため通常よりも大きくなる現象を言う。

 これらの結果を詳細に検討してみると,退化的近心大臼歯は第1大臼歯が先天的に欠如し,その遠心にある第2大臼歯が早期に萌出したと考えた方が理にかなっている。