―歯科人類学のススメ―

TEL:(052) 794-1172

歯が無くなるということ

歯の退化・欠如に関する理論

 生まれつき歯が生えてこない人がいる。この場合,2つのことが考えられる。一つは顎の中に歯がない場合であり,もう一つは顎の中に歯が埋もれて,生えてこない場合である。前者の場合を先天性欠如歯という。先天性欠如歯はある一定の規則にしたがって発現してくる。すなわち,各歯群において遠心に位置している歯ほど先天的に欠如しやすい歯になっている。このことを説明する前に,まず歯の形態形成の理論について解説しなければならない。

 バトラーは中生代白亜紀の化石哺乳類および現生哺乳類の研究から次のように述べている。これらの動物の歯を観察してみると,とくに臼歯の形態は細かい所までよく似て,きわめて類似性が高い一種の勾配状態を示している。この勾配状態を生じたのは、多くの歯胚に共通の形態形成因子が同時に働いたためと考え,全体として一つのユニットを考えるべきであると結論している。歯胚はすべてが同一の遺伝構造を有し,お互いに等価と考えられため,適当な“場”に位置すれば歯胚はその“場”に応じて将来の形が変わってくる。歯胚の形態が将来どのように変化していくかは歯胚自体にはなくて顎骨側にある。この“場”は切歯,犬歯,臼歯の領域に一致して3つの部分に分かれ存在し,お互いにある程度の独立性を持っている。3つの歯種の中で最も典型的形態を示す歯は,切歯では上顎中切歯,犬歯では上顎犬歯,臼歯では上下顎第一大臼歯で,これら特定な歯から近心(前より)もしくは遠心(後ろより)へ離れるほど形や大きさのばらつきが大きくなる。もし歯が退化・欠如する場合は各歯群の末端から生じてくると考えた。すなわち,歯の形態は歯の顎における局所的位置,および周辺の部分に対する機能的関係と発生時期によって規定されていると考えた。

形態形成の場の進化  テン(イタチ科)の歯

 ダールバーグは人の歯の形態変異性の説明にバトラーの歯の形態形成“場”の理論を用い,さらにこれを発展させている。彼は歯に出現する形質の調査から,哺乳動物の歯よりも複雑な“場”がヒトでは存在していることを発見している。とくに歯列の中での位置を重要視し,“場”にはその影響を相互に及ぼしあい,中心になる歯が存在するという「場の極性論」を展開している。“場”はそれ自体ある範囲をもっており,この範囲内では極歯からの距離が遠ざかるつれ“場”の力は減少するという。人ではこうした“場”は4つ(切歯,犬歯,小臼歯,大臼歯)に分かれて存在し,もっとも表現形が強く現われ安定している歯を鍵歯(Key tooth)と呼んでいる。鍵歯から離れるにつれ“場”の力は減少するとともに変異性が大きくなると考え,変異係数を用いてこの現象の証明を試みている。鍵歯に相当する歯は切歯では上顎中切歯と下顎側切歯,犬歯では上下顎犬歯,小臼歯では上下顎第1小臼歯,大臼歯では上下顎第1大臼歯とした。それに対し退化や欠如しやすい歯は上顎側切歯と下顎中・側切歯,それと上下顎の第2小臼歯・第3大臼歯で,これらの歯は変異歯と呼んでいる。鍵歯は形態形成因子の働きがもっとも強い部位に位置し,しかもその因子の働きが最も活発な時期に発生する。大臼歯“場”では第1大臼歯が最も早く発育するため,“場”の影響を最も受けやすく,この効果は遠心に位置する他の大臼歯が形成されるにつれ減少し,より遅れて形成される歯はその大きさや形が退化する傾向にあると考えた。

KNM-ER 15000

欠如しやすい歯種

 先天欠如が最も少ない歯は上顎中切歯と上下顎第1大臼歯で,この歯がなくなることはまずないといわれている。一方,切歯,小臼歯,大臼歯の中では遠心に位置する歯は退化や欠如しやすい傾向にある。ただし,下顎切歯は近心からも欠如する。歯の欠如する頻度が最も多い歯は第3大臼歯で,どの人類集団でもこの傾向は同じである。しかし集団によりこの欠如頻度に違いがある。欠如しやすい歯を順に並べてみると,上顎第3大臼歯>下顎第3大臼歯>>上顎側切歯・下顎中切歯・側切歯・上顎第2小臼歯・下顎第2小臼歯となる。上下顎犬歯・上下顎第2大臼歯も欠如することがあるが、その頻度はかなり少ない。現代日本人では1本以上第3大臼歯が先天的に欠如する者は約30%であるのに対し,それ以外の歯の欠如率は2%程度で第3大臼歯欠如率との間にかなり差がある。

歯の退化についての仮説

 歯の退化は体にみられる変化と一緒にあらわれるという。体にあらわれる現象として体の大きさが小さいこと、顔面ではとくに幅径が小さいこと、体の発育が遅れることが挙げられる。これらの退化現象に伴って歯の退化現象もあらわれるという考え方でガーンらによって支持されている。歯に起きる現象として歯の大きさが縮小していること、上顎側切歯が矮小形になること、第3大臼歯が欠如すると他の歯の欠如も多いこと、歯の変異が大きいこと、歯冠形成が遅れること、萌出時期が遅れること、大臼歯の咬頭が退化していることなどが挙げられる。

歯の退化および欠如に関する理論仮説

「顎骨が縮小するにつれて歯は小さくなるか欠如してくる。」この説はダーウインによって唱えられているが,そのプロセスとなると一筋ならではいかない。歯の大きさの変化についてはいろいろな仮説がある。

定向進化:ワイデンライヒはヒトの進化において歯の大きさの縮小化,第3大臼歯の欠如,顎の短縮化は相互の関連した現象としてあらわれ,系統発生的にも方向性をもつ進化のあらわれであると考えている。

骨の減少に伴うスペース不足の二次的な結果:退化・縮小の最も著しい歯は上下顎の第3大臼歯である。ロビンソンは顎骨の縮小により,歯の萌出するスペースが不足するため,結果として二次的に第3大臼歯は退化・欠如してくると主張している。

PME(突然変異の確率的効果:Probable Mutation Effect):歯の大きさの縮小化は道具の発達により歯列に対する淘汰圧が緩む(relaxation)ことにより起こってきたと考えている。

咀嚼機能仮説:食物の軟化によりそれまで硬い食物を摂っていた人類は咀嚼器官に作用する力が減少し、咀嚼筋の大きさも次第に退縮してくる。すなわち、顎骨に加わるストレスが機能的に弱まってくると歯の大きさに退化が起きるという考え方。

他にもいくつかの仮説が立てられている。

歯の大きさが大きくなっているという現象

 退化の延長線上に歯の欠如があるという考え方が一般的である。しかし,歯列の中である特定な歯が欠如してくると残りの歯の大きさは欠如した歯を補うために代償的に大きくなるという考え方がある。 ソフィア は上顎側切歯が先天性に欠如した個体では隣接する中切歯は統計的に有意に歯が大きくなるという事実から,人類は歯と顎の大きさの調和関係を維持するように進化してきたと考えている。歯が顎骨に対して大きすぎると顎骨との調和関係を維持するために次に生えてくる隣接する歯の発育は制限され、結果として隣在する歯胚間に代償性作用“compensatory interaction”が存在する,すなわち何らかの理由によって早く発生する歯が正常よりも大きかったならば,それより遅く発生する隣在歯は正常よりも小さくなるという。とくに上顎側切歯と第3大臼歯が欠如した場合でも同一歯群の隣接する近心の歯が大きくなる傾向にある。

 歯の欠如が関与しなくても高タンパク質、高エネルギーの食事を摂ると歯は大きくなり,栄養が悪いと歯は小さくなることが知られている。例えば高タンパク質の食餌を摂取するマウスは歯が大きくなる。現代日本人では第2次世界大戦後,栄養が改善され食生活が急激に豊かになったせいか、実験動物と同じような現象が生じ,歯が大きくなり、歯の欠如とくに第3大臼歯の欠如が少なくなるという。気候の変動も歯の大きさを左右している。人類集団的にみても,暑熱地域に生活する人たちは直射日光による輻射熱に対し体を大きくすることにより体温を調節している。こうした体格の大型化と共に歯も大きくなる傾向にある。例えばアフリカの住民は気温が高く、同時に体格も大きく,歯も大きい。オーストラリア先住民、ニューギニア高地人、アメリカインディアン、アフリカ黒人、米黒人も歯も大きい。オセアニアの島嶼地域に住む人たちも歯は大きい。しかし,ヨーロッパ系白人は一般に体が大きいにもかかわらず歯は小さい。一般的には体の大型化と歯の大きさの関係は無いといわれているがまだ明らかなことは分っていない。

歯の大きさの世界分布