―歯科人類学のススメ―

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「親知らず」の欠如

 歯が欠如する場合は規則性がある

 歯が生えてこない、顎の中にもない、すなわち歯の先天的欠如はランダムに生じてくる現象ではない。欠如しやすい歯をよく見ると,それぞれの歯は各歯群の遠心に位置している歯が多いことがわかる。すなわち各歯群において遠心に位置している歯ほど先天的に欠如しやすい歯になっている。これらの歯はいずれも歯群の中で発生が遅れる歯でもある。このことに気づいたのはボルク, バトラーであり,これを人にあてはめたのがダールバーグであった。
 彼らによると歯列には歯群に応じて最も形態を強く表現する部位があり,その部位から近心もしくは遠心へ離れるほど形態変異は大きくなり,欠如しやすくなるという。歯の形態を形成する場所の中でもっとも表現形が強く現われ,安定している歯を鍵歯(Key tooth)と呼び,切歯では上顎中切歯,下顎側切歯,犬歯では上下顎犬歯,小臼歯では上下顎第1小臼歯,大臼歯では上下顎第1大臼歯である。

 いつごろ欠如し始めたか

 人の歯の中で最も欠如してくる歯は第3大臼歯(=親知らず)である。第3大臼歯は高等哺乳動物の始めから今日の霊長類まで少なくとも約1億年という歴史をもっている。霊長類のサルの仲間では第3大臼歯が欠如するという特徴を示すのはヒト科に属する人類,とくに現代人と一部の新世界ザルだけである。人類進化の中でおよそ500万年といわれる歴史の大半も第3大臼歯の欠如と無関係な時代であった。化石の資料が少なくて確実なことはいえないが,今のところ分かっている化石人骨で最も古い第3大臼歯欠如の例は中国で発見されたホモ・エレクトスの「藍田原人」である。
 「藍田原人」は70万年前頃の原人類といわれている。しかし10万年前から4万年前までの旧人類(ネアンデルタール人)では欠如が今のところ確認されていない。おそらく4万年前頃の中期旧石器時代まで第3大臼歯の欠如はほとんどなかったと考えられる。

 しかし後期旧石器時代には第3大臼歯の欠如がしだいに多くなっている。ブロスウェルはBC3万年からBC5000年までの間に第3大臼歯の欠如はゆっくりと,時には急速に進んでいったであろうと推測している。すなわち現代型ホモ・サピエンスになってから現われてきた特徴といえる。ヨーロッパで2〜3万年前に現れた現代型ホモサピエンスのクロマニョン人になって3.9%の欠如がみられる。日本列島では沖縄で発見された1万8,000年前の「港川人」に第3大臼歯欠如の報告がある。

 人類の集団的変異

 第3大臼歯の欠如は人類の歯の進化と関連づけて古くから数多くの研究が報告されている。ブロスウェルは世界に分布する集団の第3大臼歯の欠如率は0.2%から25%の範囲を示し,その頻度に人種集団的特徴がみられると述べている。最も頻度が低いのは黒色人種であり,最も高いのは極北に住む人々である。日本人を含むアジアのモンゴロイド集団は世界の人種集団の中でも欠如頻度が高い集団に属している。どうしてモンゴロイド集団に第3大臼歯が多く欠如してくるか今のところ明らかでない。しかしモンゴロイド集団の中でも北方と南方に属する2つの集団あり,その中で北方モンゴロイド集団にあたる新モンゴロイド集団に欠如率が多いという現象は,彼らがシベリアの極寒の地域で発達変化した寒冷地適応の一つなのかもしれない。

 歯の退化をもたらすもの

 ヒト科の進化の過程で,顎の大きさの縮小は歯の大きさの縮小を伴っていることは一般的であるし,また骨格の変化に対して大きすぎる歯を生じるような遺伝子を除去することによって,歯と顎の大きさの調和的な関係を自然淘汰は維持するように作用してきたものと思われるが,そのプロセスとなると一筋ならではいかない。歯の退化についてワイデンライヒは,ヒトの進化において歯の大きさの縮小化,第3大臼歯の欠如,顎の短縮化は相互の関連した現象としてあらわれ,系統発生的にも方向性をもつ進化のあらわれであると考えている(定向進化)。

 ロビンソンは顎骨の大きさの縮小により,歯の萌出するスペースが不足するため,結果として二次的に第2・第3大臼歯は退化・欠如してくると主張している。すなわち第3大臼歯はその萌出が歯の中で最も遅く,他の大臼歯が顎骨の中で正常な位置を占有した後で,残されたスペースにこの歯の大きさを調和しなければならない。このため,第3大臼歯は最も影響されやすいと推測した。しかし第3大臼歯のスペース不足は他のすべての歯の大きさに起因しているため,第2・第3大臼歯が歯列の最後方にあるという位置と萌出の遅いことだけで歯の欠如を十分に説明することはできない。また、第3大臼歯以外の歯の欠如はころ理論では説明できていない。

 歯の先天性欠如と残りの歯の大きさについての報告がある。ソフィアは上顎側切歯が欠如した場合に隣接する中切歯の大きさが大きくなることから歯には大きさを代償性する作用があると説明している。溝口優司は中切歯から第2大臼歯までの歯列の中では、遅く発生する歯の補償的な成長はほとんどないが、第3大臼歯だけは全歯列の長さを補償する作用があると報告している。また山田博之は上下顎第3大臼歯が4本とも欠如する個体では隣接する第1・2大臼歯の大きさが有意に大きくなることから,歯群内に代償性作用があることを報告している。すなわち,大臼歯内では歯胚が一定以上に大きくなり,歯冠の大きさが大きくなるとそれに隣接する第3大臼歯の歯胚は一定以上に成長せずに欠如してくるという。

 以上の考え方はいずれも歯の大きさの縮小と顎の大きさの縮小が調和するように変化してきたという考えである。しかし,極北に暮らす顎の大きなエスキモーでは第3大臼歯の欠如がかなり高く,歯も比較的大きいこと,それに対して顎が小型のコーカソイドではモンゴロイドよりも欠如率が低く,歯は小さいことなど説明できない部分が多く,歯の欠如現象についての解析はまだ十分とはいえない。歯数の減少を一つの物差しで考えることに無理があるのかもしれない。ダールバーグは突顎性の退化,顎の退化,歯数の減少,歯の大きさの退化などが生存上どのような利点で生じたか難しく,文化の獲得,食物の変化,淘汰圧の減少によっても十分これを説明できないと述べている。