―歯科人類学のススメ―

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親知らず事始め

 親知らずは萌出障害による智歯周囲炎や矯正治療終了後にみられる歯列不正の再発などの原因となることから,現代の臨床歯科ではあまり歓迎されない歯のようである。しかしこの歯を形態学,系統発生学,人類学的に眺めてみると他の歯と違って一風変わった側面をもつことがわかる。ここでは最近の情報を加味しながら,親知らずについて述べてみたい。

 第3大臼歯の歴史

 哺乳類になると生えている場所により形が異なる異形歯性へ代わり,生えてくる場所により永久歯は切歯・犬歯・小臼歯・大臼歯と4つの形に分化してきた。また生え変わる歯の回数も爬虫類までの多生歯性から一度しか生えない第一生歯性と二度生えてくる第二生歯性の歯へと減少し,歯の総数も一定となってきた。高等哺乳動物の共通祖先にあたる原始食虫類では、哺乳動物の基本歯数44本を備え,歯式であらわせばI3/3C1/1P4/4M3/3=44となる。すなわちこの時点から大臼歯は3本の歯を備え,第1大臼歯,第2大臼歯,第3大臼歯と呼ばれるようになった。大臼歯の中で最も後方に位置してきた歯が第3大臼歯になってきたのは原始食虫類が生息した今からおよそ1億年前になる。したがって、霊長類が6500万年前に誕生した時点で、すでに第3大臼歯は存在したことになる。

 その後,哺乳類はその生息する場所へ適応放散し,歯の数や形も生息する環境に適応して進化し,今日へ至っている。森林に適応して進化した霊長類の中では、狭鼻猿類(旧世界ザル)のオナガザル上科(ニホンザルなど)とヒト上科(テナガザル、オランウータン、チンパンジー、ゴリラやヒト)はいずれも同じ歯式を有す仲間である。ヒト上科の中でヒト科に属する我われ人類も大臼歯は第1大臼歯,第2大臼歯,第3大臼歯まで存在し,3本という数は1億年前の原始哺乳類とまったく変わっていない。

 歯の退化と欠如

 退化という言葉は生物体のある器官・組織が進化ならびに個体発生の途上でしだいに衰退・縮小することを表している。歯でいえば大きさが縮小し欠如にいたること,形が丸みを呈し単純化してくること,機能が低下することをいう(岩波書店,生物学辞典)。一般に歯が退化して欠如にいたる場合,その過程は歯種により異なっている。

 欠如する頻度が多い歯は上顎では側切歯,第2小臼歯,第3大臼歯である。下顎では中切歯と側切歯,第2小臼歯,第3大臼歯である。欠如の仕方もいろいろあり,歯が矮小化から欠如に至る歯は上顎側切歯と上顎第3大臼歯,何も変化することなく突然欠如する歯は下顎中切歯と側切歯,上下顎第2小臼歯,下顎第3大臼歯である。上顎中切歯,上下顎犬歯,上下顎第1小臼歯,上下顎第1・2大臼歯は退化および欠如はしないかあっても稀な歯である。

 第3大臼歯の欠如

 ヒト科の進化の過程で顎の大きさの縮小は歯の大きさの縮小を伴ってきたといわれている。また退化傾向にある歯は形態的な規則性が失われ,左右非対称性が強く,個体変異が大きいという特徴をもつ。歯列の中では上下顎の最後方に位置する第3大臼歯は発生が最も遅く,環境の変化に強く影響を受け,退化傾向が強くあらわれる歯である。

現代日本人は1本以上第3大臼歯が先天欠如している人の頻度はおよそ30%である。上下左右に生えてくる親知らず4本のうちの少なくとも1本は10人に3人の割合で欠如していることになる。第3大臼歯以外の歯で欠如しやすい上顎側切歯や下顎第2小臼歯でも欠如率が7〜2%であることから,いかに第3大臼歯の欠如が多いか分かるであろう。現代人の永久歯の数が28〜32本といわれる理由もここにある。
 第3大臼歯欠如については一般に上顎の方が下顎よりも欠如は多い。後で述べるが,このような高い欠如率は日本人を含むアジアの北方モンゴロイド集団に特徴的であって,白人や黒人ではこれほど高い欠如率を示さない。ヒト以外では人類に最も近い類人猿で1%以下,野生ハツカネズミで0.8%の欠如率が報告されている。