―歯科人類学のススメ―

TEL:(052) 794-1172

不動明王の牙

 不動明王は大日如来が人々の悪心を調伏するために忿怒の姿で現れたものであり、如来の命を受け、仏法を障害するものに対し怒りをもって対決する使者であるとされている。また、その威厳に満ちた容貌から、全ての災魔を屈服させると言われ、さらに難行苦行に立ち向かう修行者を守護する仏として信仰を集めている。五大明王の中央に座している明王が不動明王で、広く「お不動さま」と呼び親しまれている。古来より多くの人々の信仰を集め、日本における最も有名な仏様の一つである。

 インドで起こり、中国を経て日本に伝わったものである。日本では密教の流行に従い、盛んに造像が行なわれた。空海によって日本へ持ち込まれた不動明王の姿は、両眼を正面に見開き、前歯で下唇を噛んで、左右の牙を下向きに出した像で「平常眼」と呼ばれている。すなわち、両眼とも正面を睨み、上顎の前歯で下唇を噛んでいる姿をしている。左右の上顎犬歯は尖頭を下にして大きく伸び、下唇の外側にはみ出している

 時代がすすみ、10世紀の天台僧・安然らの時代になると、「不動十九観」(不動明王の姿を19項目について解説)により、『大日経』などに基づく本来の不動明王像が見直され、不動明王の典型が完成してきた。右眼を見開き左眼は半開き、あるいは右眼で天、左眼で地を睨み(「天地眼」)、右の牙を上方、左の牙を下方に向けて出し(利牙上下出相)、左右非対称の姿の像になってきた。要するに、「天地眼」では右側の下顎犬歯は同側上唇の外側に上方を向いて突き出ており、左側の上顎犬歯は同側下唇の外側に下方を向いて突き出て、左右非対称の姿をしている。双方とも口は閉じて唇は強く結んでいるが、左の唇は外に向かって反転している姿である。右手に利剣、左手に羅索を持っている。(GAKKEN,不動明王より)

 生物学的にみると、牙はおそらく犬歯に間違いないであろう。牙が必ずしも犬歯でないことはゾウの牙を想像すると分かるが、ちなみにゾウの牙は上顎犬歯ではなく、上顎切歯である。哺乳類では牙は犬歯に限ることはないが、霊長類では必ず犬歯が牙の役割をしている。また、ヒトではサルや類人猿と違って犬歯が小さいことが特徴である。したがって、牙(犬歯)が大きいことは人ではないことになる。姿は人間に似ているが、歯からみる限り人とはいえない。当然であるが、架空の人物像であることは明らかである。

犬山成田山の不動明王図
犬山成田山の不動明王図。