―歯科人類学のススメ―

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乳歯と永久歯

 ヒトの乳歯と永久歯

 ワニやサメなどの爬虫類以下の動物では歯は次から次へと何度も口の中へ生えてきて、歯科医は必要ない。しかし、イヌやサル、ヒトのように哺乳類になると歯の生え変わる回数が極端に減少し、2回生えてくる歯と1回生えたら一生涯生え変わらない2種類の歯になってくる。解剖学的には始めて生える歯を第一生歯,2度目に生えてくる歯を第二生歯と呼んでいる。乳歯の20本の歯は同数の永久歯に交換してくる。永久歯でも乳歯の後方に生えてくる大臼歯は乳歯と同じ第一生歯に属し、加生歯と呼んでいる。つまり,大人の歯は第二生歯の代生歯と第一生歯の加生歯の32本の歯を備えていることになる。大臼歯は口腔内に生えたら一生涯にわたって生え代わることがない。ムシ歯や歯周病あるいは事故などで歯を失うことがない限り,同じ歯のままで一生を過ぎていく。

 乳歯と代生歯の関係

 乳歯と永久歯の前歯(中切歯から犬歯まで)はよく似た形態をしている。乳歯の形は歯冠長が短く,寸詰まりで丸く,大きさでは永久歯に比べて一回りか二回り小さい。しかし,乳臼歯とその代生歯である小臼歯はかなり大きさも形も違っている。なぜ乳臼歯と小臼歯がこれほど違うのか今のところ分かっていない。一般的に乳歯の方が永久歯よりも小さい歯をしているが,上顎第2乳臼歯と下顎第1・第2乳臼歯では大きさは逆転し,乳臼歯の方が小臼歯よりも歯は大きい。乳臼歯の形は大臼歯によく似て,とくに第2乳臼歯の形態は永久歯の第1大臼歯とほとんど同じ形をしている。大きさでは第1大臼歯の方が咬頭、隆線、溝など各構成単位が大きく,全体的にも大型の歯をしている。また第1乳臼歯は小臼歯と大臼歯の中間の形をしている。

乳歯と永久歯の大きさ

 乳歯の原始性と特殊性

 歯の構造からみても乳歯は永久歯よりも原始的な形態をそなえている。下顎第1乳臼歯ではトリゴニッド切痕や遠心トリゴニッド隆線を,第2乳臼歯は第1大臼歯よりも原始的な形質である上顎のカラベリー結節,下顎ではY5型の咬頭数・溝型のパターンの出現頻度は高い。“トリゴニッド(trigonid)”という名前も原始的な歯の構造につけられた名称に由来している。歯の硬さも乳歯の方が軟らかく,むし歯になりやすい。色調も乳歯は青白い色をしているが,永久歯では黄色を帯びた白い歯をしている。歯の大きさで性差(男性と女性の差)を比べても永久歯ほど差はない。おそらく体格的に見ても幼少の子どもでは男の子と女の子の違いがあまりないためと思われる。第2次性徴が始まる思春期以降では身体の形や大きさに性的二型が強く現われてくることを考えると,男性らしい歯と女性らしい歯が乳歯よりも永久歯にあらわれやすくなるのは当然かもしれない。

 永久歯の特徴

 永久歯の生え始める時期は6歳頃で、原則的に一度生えてきたら歯は形も大きさも一生涯変ることはない。原則的とは何もしないという意味で、日常生活している我々にとっては日に何度か食事を摂ることから不可能なことである。むし歯や歯周病になったりすると歯は形や大きさを変えてくる。とくにむし歯菌によって産生される酸によって容易く歯は溶解するため、形や大きさの変化が著しい。また、磨り減っても形は変わる。永久歯の特徴は一般に乳歯よりも歯が大きく,歯の構造も複雑・堅固で,大きさに性的二型が現われやすいことである。人類集団を扱う人類学では歯の集団間比較にほとんど永久歯が使われている。乳歯よりも入手しやすく比較しやすいためと思われる。

 歯の構造は無機質の含有量が多いことから乳歯も永久歯も地中で化石として残りやすい。ちなみに,カナダ人の人類学者ブラックによって1927年に北京の周口店竜骨山で1本の大臼歯が発見され,この歯の研究からSinanthropus pekinensis(北京原人)と命名されている。歯の化石からヒトの古い祖先であると分かったことは歯がそれだけ人類学的にも重要であることを物語る良い例であろう。

 霊長空隙と発育空隙

 人の乳歯列には生理的に存在する霊長空隙と発育空隙がある。霊長空隙は上顎の乳犬歯とその近心にある乳側切歯との間に存在し,下顎では乳犬歯とその遠心にある第1乳臼歯との間にある。永久歯ではこの状態はほとんど見られない。ニホンザルの歯列をみると,巨大な下顎犬歯を受け入れるために上顎では犬歯とその近心にある側切歯の間に空隙が存在する。ヒトの乳歯の霊長空隙と同じでありこの空隙は古い特徴であるといえる。しかし,上顎の犬歯を受け入れる下顎の犬歯とその遠心にある第3小臼歯の間には空隙がみあたらない。むしろ2本の歯は前後に重なり合っている。したがって霊長空隙は上顎だけに存在する空隙ではないかと私は思う。しかしオランウータンでは上下顎の犬歯の前後に空隙が存在している個体もある。

 発育空隙は乳前歯の間に存在する空隙のことで,将来の永久歯が萌出する際のスペースと考えられる。現在の子どもを見ると霊長空隙や発育空隙が歯列に無い子どもが多くなっている。乳歯が大きくなってきているために歯と歯の隙間にできる空隙がなくなったと思う。

 乳歯から永久歯の予測

 歯科矯正学の立場からみると,乳歯の大きさから代生歯の大きさを推定できれば,矯正治療に非常に役に立つと考えられるが,実際にはそう上手くはいかない。乳歯と永久歯の間に見られる大きさの相関関係はあまりみられない。すなわち、あまり関係がないといえる。したがって乳歯から代生歯の大きさを推定することは今のところ難しい。しかし6歳から7歳になると上下顎の中切歯が萌出するため,上下顎の中切歯から側切歯の大きさはある程度予測することが可能である。しかし中切歯と犬歯の間に相関関係が強くないことから犬歯の大きさを中切歯から推定するには無理がある。乳歯が小さいからといって将来生えてくる永久歯も小さくなると心配する必要はない。

 乳歯の先天欠如

 乳歯が先天的欠如する頻度は永久歯よりも少ない。永久歯では第3大臼歯以外で先天的欠如する人の割合は7%未満であるが,乳歯では1%未満である。類人猿の永久歯では1.2%が報告されている。欠如しやすい部位は乳中切歯,乳側切歯,乳犬歯が大半であり,欠如の仕方は退化形から欠如するよりも歯の癒合や癒着から欠如してくる割合が多い。一般に永久歯列になっても乳歯が口の中に残存している場合(乳歯の晩期残存)はその後継永久歯も欠如する場合が多い。乳歯が稀に欠如している場合でも後継の永久歯が存在する場合もあり,また欠如していることもある。乳犬歯では稀に円錐歯がみられる。