―歯科人類学のススメ―

TEL:(052) 794-1172

古代人の歯の病(むし歯と歯周炎の歴史)

 むし歯の歴史

 むし歯は口腔内細菌が代謝する有機酸が歯のエナメル質を溶かすことによって生じるが,その細菌類は砂糖をはじめとする糖質類を栄養源として常に口腔内で繁殖している。むし歯の起源をみると人類が火を使って食べ物を摂取していた原人類ころまで遡ることができるであろう。およそ今から30万年前頃のローデシア人の化石人骨にはむし歯と思われる痕が咬耗と一緒にみられている。むし歯の程度も中等度から重症度まであり,しかも露髄して歯根膿瘍を形成している。農耕が発達して文明化がある程度進んだ時期になると,むし歯が古人骨に頻繁にみられ,農耕文化が普及するとともにむし歯の出現率が飛躍的に高まっている。観察した歯数に対するむし歯の比率(出現率)は狩猟採集民や世界各地の未開集団では1%から2%であるが,農耕民ではその10倍以上になるという。クリコスは過去5,000年間のギリシャにおけるむし歯発現率を調べ,BC2,000年頃は8%であったのが,AD1,000年頃には20%まで上昇し,さらに1,600年頃には48%まで達しているという。

 イギリスでは19世紀に輸入関税が引き下げられ,砂糖の消費が急増するとむし歯も一気に増え始めたという記録がある。一方,食生活が肉や魚だけに頼っていたグリーンランドのエスキモーではむし歯にかかっている人はほとんど見られていない。しかしヨーロッパ人との接触が始まると,彼らのむし歯はその頻度をしだいに時には急速に高め,庶民の中へ蔓延していった。一般に糖分の摂取量が少ない未開社会ではむし歯が非常に少なく,逆に糖分の多い食べ物を多く摂る食生活ではむし歯の頻度も多くなる。直接砂糖を摂取しなくても農耕によって穀物栽培が始まり,炭水化物を主要食糧にするとむし歯が増えてくることも各地で明らかにされている。

 むし歯の時代推移

 古人骨のむし歯出現率を比較してみると弥生時代と現代にかけて出現率のピークが2つみられる。縄文時代のむし歯出現率は10%前後と比較的高い水準にあるが,縄文時代でも北海道と本州では随分むし歯のかかる頻度が違っている。北海道では2%ほどであるのに対し,本州では15%とかなり高い頻度である。この差は北海道では海産物に強く依存した食生活を,本州では植物性のドングリなどの堅果類やイモ類を主食していたことに原因があるらしい。各地における植物性食糧への依存度が高いほどむし歯率も高くなるという。弥生時代になると20%まで達している。これは農耕が入ってきたため、食生活が変わってきたためであろう。古墳時代から鎌倉時代にかけてほぼ10%の出現率であるが江戸時代は16%まで上がっている。現代人は砂糖をふんだんに使った甘いものを食べる機会が多いため,むし歯になる人の頻度も高くなっている。1981年の報告では1964年生まれの人のむし歯数の比率は36%まで達している。一人あたりのむし歯経験率でみると98%になる。ほとんど全ての人がむし歯を経験したことになる。しかし,最近ではこの比率は口腔衛生の向上により急激に減少傾向があり,とくに乳歯で著しい。

ウ歯率の時代変化

     井上直彦ら(1987)「咬合の小進化と歯科疾患」を著者が改変

  むし歯の性差,咬耗,食事

 男性と女性を比べると女性の方が一般にむし歯にかかりやすい。この傾向は世界のどこでも同じである。その理由として,女性の方が男性よりも歯の萌出時期が早いために口腔内で「むし歯菌」にさらされる期間が長いこと,歯の石灰化が弱いこと,あるいは糖分に富んだ澱粉食への嗜好性が強いことなどが挙げられる。また,歯冠にみられる咬耗とむし歯の関係をみてみると,はっきりした負の相関関係がみられる。例えば,ニュージーランドの先史時代のマオリでは歯冠の咬耗はかなりみられるが,咬合面のむし歯はほとんど皆無という。その代わり,歯周病の発現率はきわめてひどい状態である。逆に江戸時代の上流階級の人たちは「おかゆ」のような柔らかい食物を常食としていたため,庶民よりは咬耗がはるかに弱く,むし歯の頻度は高いという。

 むし歯の好発部位

 乳歯ではかつて咬合面にむし歯が多く現れていたが,最近ではほとんどが隣接面に多く発生している。大人でもそのほとんどが隣接面に多発している。咬合面は歯ブラシでよく磨けばきれいに汚れを取ることができるが,隣接面はそうではない。この部位は歯ブラシをよく使ってもなかなか汚れはきれいにならず,食物の残渣が溜まりやすい場所でもある。むし歯にならないためには歯間ブラシやデンタルフロスでしっかり掃除をする必要がある。

 縄文時代人のむし歯の好発部位を見ると,咬合面や歯頚部にも発現するが,歯間隣接面にも多く現れている。とくに歯頚部付近のいわゆる歯間隙(歯と歯の間)にむし歯は多い。このことは歯周炎の発症とも関係してくる。歯周炎が進行すると,歯肉は炎症を併発して発赤,腫脹,疼痛,出血を起こしてくる。炎症が少し弱まると歯肉は根尖側へしだいに退縮して歯間隙を広げ,食物が残りやすい状態になってくる。いったんその場所に食物残渣が停滞するとなかなか取り除くことは難しく,むし歯を作りやすい。むし歯により歯に穴が開くとそこへさらに食物残渣が滞留し,むし歯による欠損を大きくすることになる。おそらくこのような過程のもとに歯頚部のむし歯が多くあらわれてきたのであろう。

 歯周病

 口腔内の歯に付着する歯石では下顎の前歯とくに舌側に多くあらわれる。上顎大臼歯の頬側も歯石が多く付着する。これらの場所はいずれも大唾液腺の開口部位で,下顎前歯部舌側では顎下腺と舌下腺が,上顎大臼歯部頬側では耳下腺が関係してくる。顎下腺と舌下腺は粘液腺と漿液腺からなる混合腺で粘り気があるが,耳下腺は漿液腺でさらっとしている。歯石のほとんどは下顎前歯部舌側に付着することは現代人でも変わりない。歯石は唾液中のカルシウム塩が何らかの原因で過飽和になって析出し,歯に付着するといわれている。縄文人の骨を見ても歯石の付着が多く見られることから,歯石が歯周病の一因であったことは間違いないであろう。南太平洋の島嶼部では嗜好品として鬢榔樹(びんろうじゅ)を咀嚼する習慣があり,彼らの口の中を見ると歯にかなりの量の歯石が沈着している。埋葬された人骨では歯石で歯が完全に覆われている場合も見受けられる。

 図は4万年前のネアンデルタール人の化石人骨。臼歯部では歯槽骨の吸収がみられる(日経サイエンスより)

ネアンデルタール人の化石人骨