―歯科人類学のススメ―

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日本人の下顎骨に見られる時代変化

 下顎骨の時代変化は今までに多くの学者により調査されていますが,第2次世界大戦終了後の骨からの人類学のデータは殆どありません。わずかに井上直彦氏らが戦前・戦後の1920年代から1960年代までの住民について各世代のデータを扱っているくらいです。 井上氏は顎骨の時代変化について,顎骨の縮小変化は人類の遠い祖先において始まり,文化の発展とともに徐々に加速し,現代に至ってきわめて急速に進行している。現代においては咀嚼器官の発育は低下し,歯と顎骨の不調和という現象が急速に進行していると述べています。また海部陽介氏は下顎骨形態について人類学的立場から弥生人と縄文人の違いを調査し、弥生時代の男性は縄文時代と較べて,下顎骨全体が大きいこと,オトガイ部が高いこと,筋突起が低いこと,下顎角が鈍角であることなどを報告しています。また葛西一貴氏は縄文人と比較して現代の若者は咀嚼機能の減退により下顎枝が退化し,下顎下縁が急傾斜し、より長顔型で華奢な顔つきになっていると結論しています。


下顎骨の時代的変化

これを検証するため、下顎骨の時代変化を探ってみました。図1は頭部側方レントゲン規格写真上で下顎骨の計測部位を示したもので,下顎骨最大長はCd-Gn,下顎体長はGo-Pog,下顎枝高はCd-Goを計測して示してあります。また下顎骨の全体の大きさはCd-Gn,Go-Pog,Cd-Goのそれぞれの距離の総和として表しました。

 
図1.下顎骨の計測項目.Cd-Gn:下顎骨最大長,
Go-Pog:下顎体長,Cd-Go:下顎枝高.

  縄文時代から現代に至るまでの下顎骨の全体的大きさを示したものです。縄文時代から明治時代までのデータは頭蓋骨から,それと1934年〜1936年(第U世代)から1964年〜1966年(第X世代)のデータは住民(名古屋市)からの計測値です(井上ほか,1987)。また1981年以降のデータは同市の歯科矯正患者の側方レントゲン規格写真の結果です(山田,n.d.)。
 縄文時代から現代に至るまでの下顎骨全体の大きさの変化を調べた結果,前期縄文人は最も下顎骨が小さい集団でしたが,晩期縄文人の下顎骨はかなり大きく,弥生人や古墳人ではこの増加傾向はさらに進んでいます。しかし中世の鎌倉・室町時代では一転して縮小しています。江戸時代になると徐々に増加傾向がみられ,続く明治時代にもこの傾向は維持されています。昭和時代に入るとそれまでの顎骨の大きさは急速に大型化し,この傾向は第U世代(1934〜1936),第V世代(1944〜1946),第W世代(1954〜1956)まで続いています。1964〜1966年生れの第X世代はさらに大きくなり、それ以降もゆっくりですが増加しています。

 

図2.下顎骨の大きさの時代変化
(井上ほか,1986を改変;山田、nd)

下顎骨の細部構造の変化を比較してみると,下顎骨最大長(Gn-Cd)や顎骨体長(Pog-Go)は時間とともに増加する傾向を示していましたが,下顎枝高(Cd-Go)は逆に減少する傾向がみられています。すなわち最近の日本人の特徴として下顎骨最大長や下顎体長は大型化していましたが,下顎枝高は低くなる傾向がみられました。

 

図3.Gn-Cd, Pog-Go, Cd-Goについて,名古屋の第U世代から
第X世代,および1981〜1990年生れと1991年以降の
比較(井上ほか,1986;山田 n.d.)

 

下顎角の時代的変化

 図4.はレントゲンセファログラムによる下顎角の時代変化を示したものです。縄文時代から明治時代まで,第T世代から第X世代まで,および今回調査した1980年代と1990年代生まれの矯正患者のレントゲンセファログラムの結果をまとめたものです。下顎角は第U世代から第W世代まで上昇し鈍角化していますが,第X世代では逆に第V世代のレベルまで低下しています。ところが1980年代になると再び角度は上昇し, 1990年代になると鈍角化がさらに進んでいます。
 下顎角が開大したため現在の下顎骨全体は以前よりは異なったプロポーションになり,顎を側方からみると下顎枝後縁と下顎体下縁は直線的になってきています。すなわち,顔を横からみると直線的に,前からみるとV字形な顔になっています。

 
図4.第U世代から現在までの下顎角の変化
(井上ほか,1986;山田 n.d.).

 戦後の経済成長と食生活の変化をみると, 1950年までは総タンパク質、脂肪の摂取量が不足し、平均寿命は50才代と短命であったのが,1950年以降になるとでは動物性タンパク質の摂取量がしだいに安定し、平均寿命は大きく伸び,長寿社会へと進み始めました。1955年から始まった高度経済成長は20年近くにわたってめざましく発展し,経済の復興と共に庶民の食生活は安定してきました。バブル経済の中で多くの国民は経済的に豊かになり,飽食の時代に入っていきました。1970年代半ばに生じたバブル経済の崩壊後でも,これまでの食生活の習慣は変わらず、高カロリー食を好んで摂取しています。1990年代以降、経済が低迷しデフレ環境が継続し低所得が続きましたが、比較的安定した日常生活を維持しています。近年では、食料品が大量に海外から安い低価格輸入され,外食産業の低価格化や中食(外部で調理されたものを家庭に持ち込んで食事をすること)の加工品化が多くなってきました。  戦後の食料が戦前のそれとはかなり違っていることが分かります。この影響は人の下顎骨の形態にもはっきりと現れてきました。戦前の人と戦後の人の顔の形が変わっています。 現代人の顔が戦後になってより華奢になってきたことは否めません。戦後の暮らしの中で食生活が如何に咀嚼器官を始めとする顔面形態に変化を与えているかが分かります。