―歯科人類学のススメ―

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歯列弓の形

 上・下顎の中切歯から第3大臼歯まで近心から遠心方向へアーチを描いて並んでいる状態を歯列弓と呼んでいます。歯列弓の形は上・下顎で違いがあります。一般に上顎は半楕円形,下顎は放物線形をし、下顎歯列弓を上顎歯列弓が覆いかぶせています。
 図1.はヒトを含めた類人猿の上顎歯列弓です。オランウータン,ゴリラ,チンパンジーはいずれもU字形の歯列弓をして,犬歯から第3大臼歯までほぼ平行に経過しています。それに対し,ヒトでは半楕円形の歯列弓をして,犬歯から後方の大臼歯に向かうほど歯列弓の幅が広くなっています。ヒトとこれら3種の類人猿は歯列弓形態が違うこと、犬歯のサイズや形が違うことなどが指摘されています。図中の4つの歯列弓のうち、上2つはともにオスの歯列弓です。なぜオスの歯列弓とわかるかは犬歯の大きさをみると分かります。オスの犬歯は大きく,メスは小さくなっているからで,左下はメスのチンパンジーです。その他にも,上顎骨と切歯骨(顎間骨)の間に切歯縫合が見られます。ヒトではこの縫合は,永久切歯の萌出時に癒合しますが、その後は一塊の上顎骨になります。これらの歯列弓の形の違いは人類と類人猿を区別する重要な特徴の一つです。また、ヒトは硬口蓋が前後に短く、天蓋が深く窪み、全体として丸くドーム型をしています。

 

図1. 類人猿とヒトの歯列弓.オスのオランウータン(左上),オスのゴリラ(右上),メスのチンパンジー(左下),ヒト(右下)(Schultz,1944より)

  かつて、ヒトと類人猿の共通祖先が今考えている時代(約800万年前)よりもかなり古いと言われていた時代がありました。その発端は1932年にインドで発見された化石(ラマピテクス)でした。この化石の推定年代は1400万年前であり、類人猿と人類が分岐した年代が少なくとも1500万年前に起源したと当時は考えられていました。その理由の一つとして、歯列弓の形があります。ラマピテクスの歯列弓は放物線状をしていたと主張されていたからです。しかし、1976年にラマピテクスの完全な化石が発見され、その化石がV字状の歯列弓をしていたことが分かり、歯列弓の形でもラマピテクスはヒトの系統と極端に違っていたことが分かりました。今ではオランウータンの祖先である可能性が高いとされています。
 日本人という集団の中にも歯列弓の形態に違いがみられます。例えば,上顎歯列弓は縄文時代人では半円形、江戸時代人は半楕円形、現代人はV字形に近い形、下顎はどの時代も放物線形が見られます。歯科矯正の患者の歯列弓形態はV字歯列弓,鞍状歯列弓(瓢箪型)などの特殊な形が観察できます。また縄文人では歯列弓の前方部(犬歯から中切歯までの垂直距離)が狭くなっていますが、江戸時代や現代では犬歯から前の部分は長いことが分かります。

 

図2. 縄文人(左)、江戸人(中)(国立科学博物館所蔵)と現代人(右)の上・下顎歯列弓.

 世界の人々の歯列弓にもいろいろな形が見られます。図3.はオーストラリア先住民とポリネシアのクック諸島民の上・下顎の歯列弓です。オーストラリア先住民は上顎も下顎も円形に近い半楕円形をして,見事な形の歯列弓をしています。第3大臼歯は上・下顎4本とも生え揃っています。ポリネシア人の歯列弓はオーストラリア先住民よりも上顎は歯列弓幅が狭く、下顎は放物線形をしています。これらの人々の歯列弓は現代日本人にみられる歯列弓とは全く違います。オーストラリア先住民やポリネシア人の歯列には乱杭歯などの歯列不正は見られません。

 

図3. 左図はオーストラリア先住民(乳歯列弓と永久歯列弓)。
右図はオーストラリア先住民(左)と ポリネシアのクック諸島民(右)の上・下顎石膏模型.