―歯科人類学のススメ―

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咬耗 (Tooth wear)

 歯の硬さ,とくに歯の表層を覆っているエナメル質の硬さはモース硬度で7を示し,鉱物でいうと水晶と同じ硬さに相当します。その内側にある象牙質は硬度5~6で長石の硬さです。したがって滅多に磨り減ることはありません。しかし口の中で歯同士が接触する時や堅いものを噛み続けたりする時,また軟らかいものでも長年にわたって歯を磨り減らし続けたりすると、歯の表面はしだいに擦り減ってきます。歯にあらわれる“磨り減り”現象を咬耗(tooth wear)と呼んでいます。咬耗にはおもに3種類が分類されています。

咬耗(attrition):上・下顎の歯と歯、隣り合う歯同士による磨り減りで、歯ぎしりや強く噛み締める人に起きる。

磨耗(abrasion):歯と歯以外の物が触れ合うことで起こるすり減りで、砂混じりの食物、強い歯磨剤を用いた過度の歯ブラシ使用、歯と修復物 (インレーやクラウン、義歯など)、およびガラス職人や管楽器奏者など特定の職業の人に起きる。

酸蝕症(erosion):歯の硬組織はカルシウムとリンからなるリン酸カルシウムの結晶が主成分で、Caは酸によって溶ける性質があり、その化学作用で磨り減る病気。スポーツドリンク、清涼飲料水、ワイン、酢などの酸性飲料の過剰摂取や逆流性食道炎でも生じます。

 咬耗(症)の場合は、歯の表面が滑沢で境界も明瞭,しかも表面がピカッと光ることから比較的分かりやすいのが特徴です。磨耗(症)の場合は、表面が鈍く,境界も不明瞭で,曲面的にあらわれます。また酸蝕症の場合は、口の中の歯全体が影響を被るため,表面には多様な症状が見られます。奥歯のすり減りが加速したり、エナメル質が白く濁って見えたりもします。
 私たちは日常、歯の口腔衛生の道具として歯ブラシを使いますが,使い方を誤ると歯と歯肉の境目あたりに楔(くさび)のような磨り減りがあらわれてきます。歯磨剤に歯の表面の汚れをとる研磨剤が使われているためです。楔状に歯が磨り減ることから歯科医はこれを「楔状欠損(けつじょうけっそん)」(木を伐採するときに用いる「楔(くさび)」に似ているため)と呼んで,磨耗症の一種と考えています。このような磨り減りが進むと,歯は知覚過敏を起こし痛みを伴ってきます。楔状欠損の極端な人は歯の太さの半分ほどまで磨り減っていることがあります。

 

 私は縄文時代や弥生時代、および歴史時代の骨を今まで数多く観察してきましたが,注意深く観察してもこのような磨り減りによる歯の欠損はありませんでした。一方,江戸時代の人骨を観察していると,房楊枝の習慣(柳の枝を房状にして歯の表面を磨くこと)がある人の歯には「楔状欠損」に似た削り跡が歯に付いていました。このような欠損は現在では若い人にはあまり見かけませんが,歯磨きを乱暴にする人や高齢の方にみられることがあります。この欠損をアブフラクション(abfraction)、すなわち咬合力(噛みしめや歯ぎしり)が原因で生じると考える学者もいますが、如何なものでしょうか。何故ならば、ヒトより咬合力が強いゴリラやチンパンジーではこのような欠損が生じたという報告はまだ経験したことがありません。
 以前に勤めていた某歯科診療所にある日,若い体格の良い男性が歯の痛みを訴えて来院して来ました。患者さんの口腔清掃状態を詳しく聞いてみると,「自分はきれい好きで一日に何回も歯を磨いている」とのことでした。口の中を診察してみると確かにきれいな歯で,むし歯や歯周病もまったくありません。そこで歯を,より丁寧に詳しく診察してみると,前歯から臼歯まで一直線に歯頸部あたりに電車のレールのような狭い一筋の溝が付いていました。患者さんが訴える痛みは「楔状欠損」が原因で起こる知覚過敏による疼痛であることが分かりました。歯に付いたこの溝をレジン充填することで痛みも治まりました。「楔状欠損」は年齢を重ねた人に比較的多く出現し,男性も女性も同じようにみられます。性別はないようです。歯ブラシの不適正な使用によるマイナス効果の一つと思っています。

 

 上図はアフリカのケニアで発見された1300万年前のケニアピテクスと呼ばれている化石類人猿のオスの上顎犬歯舌側面の写真(レプリカ)とスケッチ図です。人類に誕生が700万年前ごろと言われていますから、それよりも600万年ほど古い化石です。図をみると尖頭から舌側面窩全体にかなり磨り減った咬耗があるのが分かります。模型からははっきりと認めませんが、象牙質の露出もあるほど過度の咬耗が広がっています。おそらく堅い食餌、例えば殻の堅いナッツ、種子、胡桃などを摂っていたものと思われます。古人類学者は歯のすり減り状態からその動物が生前に何を食べていたかを類推しています。例えば、チンパンジーの歯のエナメル質は私たちよりも薄くなっています。彼らは木の葉やバナナのような柔らかい果実を食べているためです。ゴリラもそうです。
 下図は6万年ほど前にヨーロッパに生息していたネアンデルタール人の咬耗を現したものです。とくにネアンデルタール人は前歯部の切縁に過度の咬耗が見られています。咬耗面をみると色が濃いところがあり、象牙質が露出していたことが分かります。おそらく生活のために前歯を使って動物の皮をなめしていたであろうと学者は考えています。このように、歯は食事をするためだけではなく、生活の一部として使われています。もう一つ、この歯で特徴的なのは基底結節の極度な発達です。これについては前回お話ししました。