―歯科人類学のススメ―

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基底結節

 現代人の上顎前歯の舌側面基底部には典型的な隆線あるいは結節が現れてきます。この膨らみはヒト上科やヒト科の進化において深い歴史があります。まず現在使われている用語を説明していきたいと思います。 わが国では,藤田恒太朗(1989)はこの膨らみを基底結節、上條雍彦(やすひこ)(1975)は舌側歯頸隆線(舌側歯頸結節)と呼んでいます。藤田の基底結節(basal tubercle)は日本では歯の解剖書によく記載されていますが、海外ではむしろ上條が用いた舌側歯頸隆線(舌側歯頸結節)が使われているようです。歯の解剖書には似た言葉として、canine tubercle、dental tubercle, basal cingulum, tuberculum dentale、cervical enamel eminence, lingual tubercle, lingual cingulum, basal eminence, canine cingulumなどが使われています。

 

 上条は近・遠心の辺縁隆線が合する付近にできる結節を舌側歯頸隆線(舌側歯頸結節)と呼んでいます。この隆線の発達程度はまちまちで、頻度は以下のように分類されています。

 

 ここではこの膨らみを私たちに一般に使われている基底結節と呼ぶことにします。基底結節はヒトの進化上どのように形態に関係しているのでしょうか。下の写真は左が旧世界ザルのニホンザル(♂、♀)、右が類人猿のチンパンジー(♂、♀)の上顎犬歯です。
 ニホンザルもチンパンジーもこの隆線は歯頸部を取り巻く細い隆線として存在しています。この細い隆線を舌側面歯頸隆線と呼んでいます。この取り巻く隆線はオスよりもメスでよく発達していますが、なぜそうなのかまだはっきりと分かっていません。発達した基底結節はニホンザルもチンパンジーも観られません。辺縁隆線はあっても非常に短く、はっきり辺縁隆線と区別できるような形質ではなく、歯頸隆線に移行しているだけです。接触点に相当する部位すなわち最大突出点はオスもメスも歯頸部近くに位置しています。ヒトに最も近い関係にある類人猿はチンパンジーと言われていますが、犬歯の大きさや形態をみるとヒトとはかなり違っています。

 

下の写真はアノイアピテクス(左:Pickford,2012)とシヴァピテクス(右:Kay, 1982)で,およそ1,200万年前のオスの化石類人猿の上顎犬歯の写真です。この2種もチンパンジーと同じような形をしているのが分かります。



それでは今から700万年前に誕生したといわれている初期のヒトの犬歯はどんな形をしていたのでしょうか。今のところはっきり化石で残っている最も古い犬歯は440万年前のラミダス猿人の上顎犬歯です。 下図は左からラミダス猿人、アフリカヌス猿人、エレクトス原人、ドマニシ原人、ハイデルベルク人の上顎犬歯舌側面を示しました。ここで注目する点は,歯冠の概形の違いです。オスのチンパンジーや化石類人猿は,幅広で丈の高い二等辺三角形をし、歯冠全体は遠心へ傾いていますが、ラミダス猿人以降では5角形ないし菱形をしていることが分かります。また、接触点すなわち犬歯の隅角が化石類人猿の時代よりも化石人類では尖頭方向に上昇している点、さらには犬歯の隅角の上昇に伴って近・遠心辺縁隆線が現れてきた点です。 舌側面歯頸隆線すなわち基底結節はどうでしょう。化石類人猿ではあまり発達していなく、基底結節に相当する膨らみもありません。しかし化石人類をみると辺縁隆線が合する基底部に膨らみが生じてきます。化石人類ではこの辺縁隆線と基底結節の発達が特徴的です。 それではなぜこのような特徴が化石人類の時代になって現れてきたのでしょうか。ここからは私の推論です。化石類人猿までの犬歯は歯冠近遠心径が唇舌径よりも長く、肉を引き裂くような力に適した形をしています。しかし化石人類の時代では犬歯が縮小してきたことから下顎の運動は臼磨運動が可能となり、犬歯に側方からの力が以前よりも強く加わってきた筈です。これに対応するために犬歯は近遠心径よりも唇舌径が長くなってきたと思います。歯冠指数(唇舌径/近遠心径×100)を算出してみると、100以上の値を化石人類はしていますが、化石類人猿は総じて100以下の値になります。相対的に歯冠唇舌径が長いということです。如何でしょうか。現代人も辺縁隆線や基底結節はよく発達しています。



なお、下の写真は今からおよそ13万年前にヨーロッパのクロアチアにあるクラピナで暮らしていたネアンデルタール人の上顎切歯や犬歯の舌側面からみた写真です。前歯には強い咬耗がみられ、歯冠の半分以上がなくなっているのが分かります。さらに切歯も犬歯も舌側基底部に極度に発達した基底結節や辺縁隆線が見られます。おそらく彼らの暮らしは前歯を使って動物の皮をなめしたり、線維性の強い食物をしごいたりして、前歯を強く使う仕事に従事していたと考えられます。